ブッケル ヘフゲン ヘフリガー シュラム リヒター指揮ミュンヘン・バッハ管 J.S.バッハ ミサ曲ロ短調BWV232(1969.5.9Live)

バッハが晩年に創造したミサ曲ロ短調の成立事情については不明な点が多い。
それは、大木正純さんがいみじくも書くように、果たして「敬虔なプロテスタントのバッハが、人生の最後に、宗派という狭い枠を乗り越えることによって到達した、孤高の境地」だということになるのだろうか。
思想や信条とは、人間ならではの知恵でありながら、それがまた対立を招く種となるものだ。争いや諍いは大抵そういう些細な信念の衝突から起こるもの。バッハはその最晩年に、世界中から戦争や災禍がなくなることを祈りつつ、ミサ曲の編纂を試みたのかもしれない。

カール・リヒターが手兵ミュンヘン・バッハ管弦楽団&合唱団を伴って初来日したときの「マタイ受難曲」は、最初の録音である1958年盤に比較して、ライヴならではの熱気と前進性に優れたものだ。同じく大曲ミサ曲ロ短調も、この来日時の演奏は実に有機的なもので、不謹慎ながらいつもなら持て余してしまう2時間余りがあっという間に過ぎて行き、個人的にはこの実況録音盤によってようやくものにできた感がある。

・ヨハン・セバスティアン・バッハ:ミサ曲ロ短調BWV232
ウルズラ・ブッケル(ソプラノ)
マルガ・へフゲン(アルト)
エルンスト・ヘフリガー(テノール)
エルンスト=ゲロルト・シュラム(バス)
カール・リヒター指揮ミュンヘン・バッハ管弦楽団&合唱団(1969.5.9Live)

全体を通して、(ほとんど歓喜を歌うような)金管群の妙なる咆哮が胸に刺さる。上野は東京文化会館でのライヴ録音。
キリエ冒頭5部合唱の弾ける音圧から敬虔なるバッハの音宇宙に誘われる。何と勢いのある、血の通った音楽なのだろう。あるいは、続くグロリアの中心に位置するドミネ・デウスを聴くと、ミサ曲ロ短調が単なる教会の典礼のためのものでなく、生を謳歌し、希望と愛に溢れる音楽だということをあらためて思う。そして、ニカイア信条(クレド)の中心である4部合唱クルシフィクスの静かで荘厳な美しさに心が躍る。さらに、サンクトゥスからアニュス・デイに至る最終章の喜びよ。何より6部合唱サンクトゥスの感動よ。また、独奏ヴァイオリンに導かれテノールによって歌われるベネディクトゥスの安寧(ヘフリガーの思いのこもる優しい歌唱が堪らない)!!

ところで、いろいろ調べてみると、プロテスタントのバッハがカトリックのミサ通常文への作曲を思い立った理由は諸説ある。一つは、単に注文を受けたから書いたという説、また一つは、前述の大木さんの言葉通り「バッハは年齢とともにカトリック対プロテスタントという対立的な考え方から離れ、カトリックに対して寛容になってきた」という説。どちらも可能性はあるが、個人的には後者の理由であると信じたい(信仰心篤いバッハが、人生の最後に行き着いた心のあり方として相応しいと思うゆえ)。
※参考サイト/百々隆「ロ短調ミサ曲について(その1:ロ短調ミサを巡る謎)」

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