グールド アンチェル指揮トロント響 ベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番「皇帝」(1970.12.9収録)

冒頭カデンツァの驚愕のルバートに僕はうなった。
これぞグレン・グールドの業。グレン・グールドにしか成し得ない表現だろう。
あまりに恣意的ともとれるが、その後の音楽の無情なまでの流れに、それで良いのだと悟った。やっぱり彼は一世一代の天才だ。

まるで機械のような正確な指さばき。
無心、無我、無為の境地かと思わせるほどの衝撃といえば大袈裟か。
グールドの考えは、あくまで既存の枠を打ち破ることに尽きる。強靭な意志がベートーヴェンを貫き、ほとんどピアニストの独壇場ともいえる演奏に、指揮する大家もたじたじだ。

このときカレル・アンチェルは何を思うのか。
自由でありながら堅牢な、一切の揺るぎないベートーヴェンに指揮者もオーケストラも唖然としたのではなかろうか。特に、グールドの左手が何という絶大な力を発揮することか。緩やかな、夢見るような第2楽章アダージョ・ウン・ポコ・モッソが美しい。

・ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番変ホ長調作品73「皇帝」
グレン・グールド(ピアノ)
カレル・アンチェル指揮トロント交響楽団(1970.12.9収録)

50年前の、火を噴く(?)、否、氷のような冷たい(?)変ホ長調協奏曲「皇帝」。おそらくベートーヴェンの生誕200年を記念しての映像収録だと思うが、こういう恐るべき演奏が残されていること自体が奇蹟だといえまいか。あれから半世紀を経てもグールドの解釈はまったく新しい。

確かに、ある段階では、誰もがアイドルを持つものです。ピアニストを挙げると、いやピアニストらしからぬ人を挙げるならば、私のアイドルはシュナーベルでした。子供の頃です。そういう段階を経由して、やがて自分の中から追い出します。はやりの言葉を使うなら、役割モデルですが、これはある段階では必要なのです。ところが成熟した演奏家は違います。必ず信奉すべき統一見解があって、それは、ひとつの作品の真理がどこにあるかを知るためにさまざまな録音を学んだりあらゆる演奏を聴いたりしなくてはならないとか、中道を行く伝統的な演奏に近づくほどましになるといった考え方は、まったく滑稽だと思いますね。再創造行為が創造行為とは本質的に異なるという発想を私は拒否します。実はここに答の核心があります。私が信じられないのは、わざわざこう言う人がいることです。「この曲を弾いてみようと思います。なぜならXとYと(カナダ人発音をお許しください)Zが弾いているからです。ただし私なりの独自性を少々主張するために、ほとんどXの弾き方を踏襲しつつ、Yの弾き方の10パーセントを加味し、もしかしたらZのテンポを採用するかもしれません。そうすればこの3人の誰とも微妙に異なって思えるでしょうから、前にもそうやって弾いた人がいたよ、などと言われずに済みます。」
基本的に、これは音楽を構造として捉える私の態度とはかなり大きく異なるプロセスです。つまりこういう取り組み方は、私にとってはまったく無意味です。

グレン・グールド、ジョン・P.L.ロバーツ/宮澤淳一訳「グレン・グールド発言集」(みすず書房)P287-288

グールドの見解は明快だ。
彼にとってすべては創造行為なのだ。
グレン・グールドのベートーヴェンが美しい。

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