ブッシュ三重奏団 シューベルト ピアノ三重奏曲第2番D929(1935.10.23録音)

戦前の録音からは、言葉にならないノスタルジーが感じられる。
もちろん僕はまだ生を享けていない。それなのに、その時代を過ごしたかのようなリアルな感情が沸々と湧き上がるのだから面白い。記憶があるようでない、記憶がないようである、人とはそういうファジー(いい加減)な生き物なんだと思う。
音楽を聴くことが贅沢だった時代。
まして、レコードを聴くとなると、庶民にとっては夢のまた夢という時代。

なぜなら、ある晩みんなが、それがピアノ室に置いてあるのを見て—両手を頭の上に打合せたり、前屈みになって膝の上で打合せたりして歓迎したその器械は、第一に光学応用の器械ではなくて、聴覚に訴える器械であったし、さらにその等級、品位、価値、いずれの点から見ても、いままでの単純な玩具などとは全然くらべものにならないほどに立派なものであった。それはわずか3週間もたてばもう飽きあきして、さわってみる気もしなくなるような単純な子供だましの玩具ではなかった。それは明朗な、そして深遠な芸術的な楽しみがあふれるように湧きでる宝角であった。
それは音楽の器械、蓄音機であった。

トーマス・マン/高橋義孝訳「魔の山」(下巻)(新潮文庫)P617

マンのこの描写を見ても、当時の高級蓄音機が好事家にとってどれほど価値あるものだったかがわかる。

「これは器械とか器具とかいうような下等なものじゃない」と、彼は台の上の色のついた小箱から針を一本取って、それをサウンド・ボックスにつけながらしゃべりつづけた。「これは楽器だ、ストラディヴァリウスにもグァルネーリにも匹敵する楽器です。こいつの共鳴、震動はすばらしいですよ。実に洗練されている。この蓋の内側のマークにあるように、『ポリュヒュムニア』という名の製品です。むろんドイツ製です。私たちドイツ人はこういうものを作るとなると、まず天下無敵ですからな。近代的な機械化と音楽的精神との誠実な結合です。アップ・トゥ・デイトのドイツ魂。そこにレコードがあります」彼は壁の戸袋を指したが、そこには分厚いアルバムが何冊も並べてあった。「この魔法の宝をそっくり皆さんにお任せして、ご自由に楽しんでいただきますが、どうかひとつ大切に扱ってくださるようにお願いします。まあ試しに一曲かけてみますか」
~同上書P619

それに、当時のドイツのハード面における技術力がいかに高度なものであったか、そのことも手に取るようにわかる描写だ。それにしてもこの後、かけられるレコードがオッフェンバック、あるいはロッシーニやヴェルディのオペラ・アリアである点がまた興味深い。

音盤に刻み込まれた、ほとんど一発録と思われる古の演奏は、得も言われぬ歓喜をもたらしてくれる。

・シューベルト:弦楽四重奏曲第8番変ロ長調D112(1938.11.25録音)
ブッシュ弦楽四重奏団
アドルフ・ブッシュ(第1ヴァイオリン)
ゲスタ・アンドレアッソン(第2ヴァイオリン)
カール・ドクトール(ヴィオラ)
ヘルマン・ブッシュ(チェロ)
・シューベルト:ピアノ三重奏曲第2番変ホ長調D929(1935.10.23録音)
ブッシュ三重奏団
ルドルフ・ゼルキン(ピアノ)
アドルフ・ブッシュ(ヴァイオリン)
ヘルマン・ブッシュ(チェロ)
・メンデルスゾーン:弦楽四重奏のための4つの小品作品83から第3曲カプリッチョホ短調(1949.5.17録音)
ブッシュ弦楽四重奏団
アドルフ・ブッシュ(第1ヴァイオリン)
ブルーノ・シュトラウマン(第2ヴァイオリン)
フーゴー・ゴッテスマン(ヴィオラ)
ヘルマン・ブッシュ(チェロ)

シューベルト最晩年のピアノ三重奏曲が生命力豊かで活気に満ち、素晴らしい(ゼルキン&ブッシュ兄弟の真剣勝負!)。第1楽章の第2主題には、僕の愛聴するピアノ・ソナタ第18番D894第3楽章メヌエットの主題が引用されており、音楽そのものは例によって長尺だけれど、この愛すべきフレーズが顔を出すたびに僕の内には歓喜が起こるゆえまったく飽きない。同じく第2楽章アンダンテ・コン・モートも10分を要する楽章だが、爽快で希望に満ちた音調が美しい。比較的短めの明るい第3楽章スケルツォを経て終楽章アレグロ・モデラートはいかにもシューベルトらしい、否、ベートーヴェンのお鉢を継ぐ、またのちのブラームスに影響を与えたであろう弾けた、しかし堅牢な音楽にはやはり生きる希望が溢れている。三重奏曲の作曲着手は旧姓のちょうど1年前だが、少なくともこの時点でシューベルトはまさか自分が1年後に命を落とすことになろうとは想像もしていなかっただろう。

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