チャレンジ

brahms_4_kleiber_vpo.jpg昨日はカルロス・クライバーの80回目の誕生日だった。この13日には亡くなって早くも6年が経過することになる。たまたま書店で「音楽の友」7月号の表紙を見たら、クライバーの特集が組まれており、普段滅多に買わないが、今回ばかりはと早速手に取った。1988年のスカラ座公演と、1994年のウィーン国立歌劇場来日公演で制作技術総監督を務めた広渡勲氏の「いま明らかにされるクライバー秘話」と題する記事が掲載されており、これが滅法面白いもので、著作権の関係もあろうからあえて本文をコピペすることはしないが、伝説の来日公演の裏話が念入りに描かれていて、クライバー・ファンといわずともクラシック音楽好きにはぜひとも読んでいただきたい。

何より、ドタキャン魔であるクライバーの公演を実現させるために氏が払った努力と根性は並大抵のものではないことがよくわかること。嘘も方便、何でもあり、とにかくクライバーを招聘するためには何でもやる。気難し屋のマエストロの気分を害さないように腫れ物に触るように扱い、うまく乗せてゆく。そして紆余曲折を経て、最後は涙を流し、結果それによって信頼関係が構築されたという話。これだけで人間関係構築の基本が勉強できる。

ワークショップZERO第1日目を終え、思ったこと。

何事もやり切ること、チャレンジすること、そしてベストを尽くすこと、本気で向かうこと。まさに上記の広渡氏がクライバーを招ぶために全身全霊で尽くしたその姿勢こそが「鑑」なり。

カルロス・クライバーがアンコールでよく採り上げたのはヨハン・シュトラウスの「こうもり」序曲と「雷鳴と電光」。かつて僕が一度だけ触れた舞台でもこの2曲が披露された。実にクライバーらしい名演奏だった。メイン・プログラムのベートーヴェンの2曲以上に感動したといっても言い過ぎでない。

ということで、今夜は喜歌劇「こうもり」でもと思ったが、何だかそんな気分じゃないので止めにした。

ブラームス:交響曲第4番ホ短調作品98
カルロス・クライバー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

この渋い、秋めいた音楽は、クライバーが振ると途端にカラッとした初夏の響きに変化する。Esoteric社のリマスターSACDハイブリッド盤が発売されているが、残念ながら未聴。ムラヴィンスキーのチャイコフスキーで仰け反ったくらいだから、これもさぞかしと思われる。いずれ聴いてみたい。

4 COMMENTS

雅之

おはようございます。
ファジル・サイのしらかわホールでのリサイタルに行ってきました。
演奏への、身振りや鼻歌を交えた没入、集中力と、テクニック、迫力が最高で、岡本さんの東京公演のご感想と同様、特に「展覧会の絵」は絶品だと思いました。自作のアンコール等における特殊奏法も面白かったですね。家族も大満足のようでした。
しかし、今回のサイの来日公演スケジュールも去年や今年のツィマーマン(1か月に日本全国各地でほぼ同一曲目を15~17公演!!)ほどではないにしろ、凄いですねぇ。
6月の予定は知らないし、全部調べたわけでもないのですが、直近の日程では、
7月2日(金) 19:00開演 「展覧会の絵」他 東京 紀尾井ホール
7月3日(土) 18:00開演 F.シューベルト:ピアノ・ソナタ第18番≪幻想≫ト長調op.78,D.894、R.シューマン:アベッグの名による変奏曲op.1、L.v.ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第32番ハ短調op.111他  静岡 静岡音楽館AOI 8Fホール 
7月4日(日) 11:00開演 「展覧会の絵」他東京と同一プログラム 名古屋 三井住友海上しらかわホール
7月6日(火) 19:00開演 「展覧会の絵」他東京と同一プログラム 石川 金沢市アートホール
特に、7月2日 東京19:00開演、翌7月3日静岡、東京とは全然違う曲目(私は本音では静岡での曲目を聴きたかった!!)で18:00開演、翌朝7月4日名古屋、再び東京と同一の曲目で11:00開演!という過密日程をこなすスタミナ、バイタリティーは半端じゃないと思いました。さすが超一流プロは違う!!
ツィマーマンの、「そうして、本当に音楽がなすべきことがなされるような状況で聴いていただきたい。そうでないと、私が愛を表現しているもの自体がポルノグラフィーになってしまいます」
http://classic.opus-3.net/blog/cat29/2010-1/index.php#comment-2341
という言葉を借りるならば、ツィマーマンやサイの来日公演は、ほぼ毎日か1日おきに、日本各地の女を義務感で抱くようなものじゃあないでしょうか? それこそポルノグラフィーなのでは? 行き過ぎた(イキ過ぎた・・・笑)過密日程の外国公演とは、いわば風俗産業みたいなものなのでは?(爆) それなら丁寧に時間をかけて制作したセッション録音のほうが心がこもっていてよいという、グールド的な理屈も成り立つわけです。
私が外人の来日公演より、日本人やアマチュアの演奏会のほうが好きなのは、金銭的理由もありますが(苦笑)、そういう理由も大きいんですよ。1回の演奏会にかける重要性からくる意気込みが、そもそも異なるんですよ。下手なアマオケだってですね、半年とか1年に一回の定期演奏会は、ワールドカップ本大会みたいな緊張感が堪らないし、聴く側にもそれがよく伝わるものです。だから、ウィーン・フィルやベルリン・フィルの来日公演よりも感動することが、しばしば有ります。
カルロス・クライバーの演奏会を濫造しない仕事ぶりは、貴重でしたね。解釈の熟成は、一見無駄で暇な多くの時間をかけないと生まれないと思うし、プローベ(練習、リハーサル)だって、ユニオンに守られた時間を厳守していたら、いい仕事は絶対にできません。彼は、それを痛感していたのでしょう。
「伝説の来日公演の裏話」は面白そうですね。
私は、「いい仕事をする」とか「何事もやり切ること、チャレンジすること、そしてベストを尽くすこと、本気で向かうこと」のために、人間を好きになるという条件は必ずしも必要ではないと、昔から思っています(ここが岡本さんとの人生観、価値観の違いでしょうが・・・)。
要は仕事の対象物(取り扱う生きた芸術家でも、商品でも、演奏したり作曲したりする音楽でも、研究に打ち込む物質、天体、法律、数学、科学、哲学他何でも)に、どれだけのめり込むほどに、きちがいになるほど好きになれるかだと思うんです。お客様への愛は、その後で付いてくる、ってことでもいいじゃないかと。愛だけあっても中身がなくちゃだめだと思うんです。中身がないのなら、愛なんてないほうがいいです。
まあ、そういう意味では、ファジル・サイの演奏には、充分に濃い中身がありました。それが売春のような「かりそめの愛」か、「純愛」かはともかく(笑)。

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
そうですか!やはり良かったですか!!
サイはまだ40歳ですからね、すごいバイタリティだと思います。
>ツィマーマンやサイの来日公演は、ほぼ毎日か1日おきに、日本各地の女を義務感で抱くようなものじゃあないでしょうか? それこそポルノグラフィーなのでは? 行き過ぎた(イキ過ぎた・・・笑)過密日程の外国公演とは、いわば風俗産業みたいなものなのでは?(爆) それなら丁寧に時間をかけて制作したセッション録音のほうが心がこもっていてよいという、グールド的な理屈も成り立つわけです。
なるほど、それもそうですね。
>下手なアマオケだってですね、半年とか1年に一回の定期演奏会は、ワールドカップ本大会みたいな緊張感が堪らないし、聴く側にもそれがよく伝わるものです。だから、ウィーン・フィルやベルリン・フィルの来日公演よりも感動することが、しばしば有ります。
そのお気持よくわかります。
>要は仕事の対象物(取り扱う生きた芸術家でも、商品でも、演奏したり作曲したりする音楽でも、研究に打ち込む物質、天体、法律、数学、科学、哲学他何でも)に、どれだけのめり込むほどに、きちがいになるほど好きになれるかだと思うんです。
>お客様への愛は、その後で付いてくる
その通りだと思います。たまたま僕は人間が好きでそれをテーマに仕事をしてるだけですからね。

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雅之

おはようございます。
私のここでの日頃の基本スタンスは、いわば頭の体操、ある意味ゲーム感覚で、岡本さんに嫌われるのを厭わず(むしろ積極的に嫌われようとして、意識的にレッドカードを貰おうとして)岡本さんブログ本文を対立軸の向こう側から考えてその日のテーマについての思索を深めていますので、コメントの毒には、本音ではない部分も多々含まれています。だから、出来ましたら、コメントの違和感については、ズバッと小気味よく、きちんとここで反論していただきたいものです。こちらも勉強になりますので・・・。
なお、「絶交だ、退場!!」と言われても全くOK、むしろ本望です(笑)。
たとえば、
>行き過ぎた(イキ過ぎた・・・笑)過密日程の外国公演とは、いわば風俗産業みたいなものなのでは?
に対しては、
モーツァルトの人生だって「行き過ぎた過密日程」でしたよね。過密日程だったからこそ「疾走する悲しみ」というか、曲がどんどん深くなったのではないですか? 多くの天才ジャズメンだって、酒と薬と女に溺れて疲れた頭脳と肉体だったからこそ、名演を星の数ほど生んでいますよ。過密日程の何が悪いのですか? あなたの見識は、はっきり言いますが、だいぶ浅いです。
といったような切返しは理想です。それで初めて私は勉強になるのです。
無料配布冊子「ぶらあぼ 2010 7月号 (東京MDE)」210ページ 「メグリンのHappy Tune Op.109 他人の目を持つ」より
http://www.mde.co.jp/
・・・・・・プロのお掃除の人に掃除の心得を聞くと、「あらゆる角度からのそうじが大事。たとえばカオを洗うときはカオはずいぶん下のほうに行きますからね、そこから見える蛇口などが綺麗でないといけません。どんな目線にも対応できるよう心がけます。」とさすがなお言葉。
 プロフェッショナルであるということは、この「他人の目」なり「他人の耳」を持つということであろう。要するに大事なのは「想像力」である。
 私の友人があることで悩んでいた。その友人は頭のよい人なのでこう考えた。
 「この悩みを人から相談されたら何てアドヴァイスしてあげるかな」と。そしてその悩みを「他人」の立場で考えることによって、自分自身に適切なアドヴァイスを与えることができ、見事に悩みから解放されたという。
 「他人」というのは「世間」のことではない。「世間」というのは誰もハッキリとは見たことのない集団であり、人をチヤホヤしたかと思うととことんまで追い詰めるという大変残酷な面を持つ。ここでいう「他人」とは、そんな集団ではなく、自分自身の一番の「友人」として存在すべき「他人=自分」である。本当の友人ならば「それってあなたが悪いわよ」と「ダメだし」もしてくれる。音楽家にとって「厳しい耳を持つ友人」を持つか持たないかは、その人の音楽人生を大きく左右することくらい大切なことだ。
 ところが年を重ねていくと、厳しいことを言ってくれる人を排除していく傾向が出てくる。だから厳しい友人がいる人は「自分はまだ若い」と喜んでいいくらいだ。とにかく「イエスマン」ばかりと付き合ってしまうと、自分に見えないものを見なくなるように自分に聴こえないものは聴かなくなる。ということは感性は鈍くなるし、成長は止まり退化の一途をたどるし、美容には悪いし、いいことはひとつもない。
 せめて自分自身くらいは、「自分にダメだしをしてくれる友人」であり続けたいものである。  
                               廻 由美子(ピアニスト)
       
http://classic.opus-3.net/blog/cat29/post-434/index.php#comment-1943
 

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
雅之さんのコメントの基本スタンスはよーくわかっておりますよ。相当厳しい攻め方だな(笑)と思うこともよくあり、一瞬むきになって反論しそうになるのを最近は抑え込んでおりました。
やりとりが「頭の体操」であり「勉強」であるなら、やっぱり思ったことはストレートに書いた方が良いですね。
少し僕もさぼり気味でしたので、今後は頭を使うようにします。
ちなみに、ご自身で反論されているモーツァルトの例はほんっとその通りですよね。そう考えると、ツィマーマンの見解も正しいし、グールドのようなアーティストがいてもいいし、まぁいろんな考え方があるということです。
あと、廻さんの言葉いいですね。
>せめて自分自身くらいは、「自分にダメだしをしてくれる友人」であり続けたいものである。  
とはいえ、なかなか人間は自分には甘いものです。だからこそきちっとクリア・メッセージを送ってくれる本当の友人の存在って大事だと思います。

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