フランシス・プーランク作曲の喜劇「理解されない憲兵」(1921)はジャン・コクトーとレーモン・ラディゲの合作となっているが、コクトーがほぼ一人で書いたものだそうだ。長い間失われたと思われていたが、カナダの音楽学者ダニエル・スウィフトによって発見され、1988年にサラバートから出版された。
20数分の喜劇の舞台は警察庁長官メドールのオフィスで、憲兵隊と侯爵夫人(司祭の格好をした老婦人)が登場する。侯爵夫人は公序良俗に対する暴挙で罰金を科されたところ。憲兵の供述書は、ステファヌ・マラルメの晩年の詩「聖職者」から引用されており、メドールがまた侯爵夫人の無罪放免を宣言するのに読んだのは同じくマラルメのマドリガル「空しい願い」の引用だった。ちなみに、長官メドールの本件の報酬はレジオンドヌール勲章だという。何だかよく分からない物語だ。
それにしてもマラルメが引用されているところが何ともコクトーの洒落っ気だろう。それにしてもどこか頽廃の色隠せないプーランクの音楽の、相変わらずの静寂と喧騒の対比が素晴らしい。序曲の主題はどこか「ドン・ジョヴァンニ」の幕開け、レポレロの歌を髣髴とさせる。全体の雰囲気、音調はいかにも「吉本新喜劇」風。長らく忘れ去られていた作品だが、軽快な音楽が心を癒してくれる。
この物語は確かにほぼコクトーの筆であっただろうことが想像できる。
ちなみに、腸チフスのため、わずか20歳で夭折したレーモン・ラディゲ(1903-23)。その死に衝撃を受け、コクトーはしばらくの間薬漬けになったというのだから何とも凄まじい。
ラディゲが16歳から18歳の間に執筆(1923刊行)した名作「肉体の悪魔」。
この背徳的な小説が少年によって生み出されたことが奇蹟的。文字通り若気の至りたる全貌が詳細に描写されるが、果たしてこれは傑作と言えるのかどうなのか。
幸いに彼女は食いしんぼうだった。ところで僕の食いしんぼうは前例のない型のものだった。僕はパイや木苺入りのアイスクリームには全然食欲を感じないで、彼女が口に近づけるそれらのパイやアイスクリームになりたかった。僕は思わず自分の口をゆがめていた。
僕がスヴェアをほしがったのは、不品行のせいではなくて、食いしんぼうのせいだった。唇がいけなかったら、頬でもよかったであろう。
僕は彼女によくわかるように、音節を一つ一つはっきり発音しながら話した。いつもは黙りがちな僕なのに、こうした楽しいままごとに興奮して、早く話せないことをもどかしがっていた。僕はおしゃべりや、子供っぽい打明け話がしたくてたまらなかった。僕は自分の耳を彼女の口にくっつけていた。そして彼女の幼稚な言葉に聞き惚れていた。
僕は無理強いにリキュールを一杯飲ませた。飲ませたあとで、まるで小鳥でも酔っぱらわせたように、彼女のことがかわいそうになった。
彼女が酔えば、僕の計画どおりになると僕は期待していた。というのは、彼女が唇を与えてくれるのは、喜んで与えてくれるのであろうと、そうでなかろうと、僕にとってはほとんど問題ではなかったから。マルトの部屋でこんなことをするのは不謹慎だとは思ったが、結局僕たちの愛から何も取去るわけではないと自分に繰返した。僕はスヴェアを果実のように欲しているのであった。恋人はなにも嫉くには当たらないことなのだ。
~ラディゲ/新庄嘉章訳「肉体の悪魔」(新潮文庫)P141-142
しかし、絶望的な筆致と湧き立つ官能の限りという点では実に生々しく、美しい物語だと思う。そしてその内容は、どこかプーランクの音楽に通じているのだ。
クリュイタンスの名盤「ティレジアスの乳房」についてはいつかまた書く。
それよりプーランクが女優イヴォンヌ・プランタンのために書いた「愛の小径」の古の優雅な響きに心が和むのだが、よくよく考えると第二次大戦下での録音ゆえ、どこかに悲哀すら刷り込まれていよう。素敵だ。
私の音楽は私がゲイであることを抜きにしては成立しない。
(フランシス・プーランク)