マゼール指揮ウィーン・フィルのマーラー「復活」交響曲を聴いて思ふ

mahler_4_maazel_vpo1871年7月25日火曜日の「コジマの日記」が面白い。リヒャルトが見たハンス・フォン・ビューローの夢をきっかけに2人は愛について語り合うことになったのだと。

「まぁ、完全な合一に至る愛など、強迫観念のような苦しみでしかないがね。」
「それに―『トリスタン』という作品は全体としてそのことを表現しているけれど―完全な合一は死において初めて成就するのよね。そのことは、いつも感じている。自分が自分の殻の中に閉じ込められているような気がして、その殻を打ち破りたいと思うわ。その一方で、死んでもあなたとひとつに結ばれたい。この矛盾は、どう辻褄を合わせたものかしら。」
「存在するものはすべて、滅びることがない。ひとたび獲得したものは、現象の制約から完全に解き放たれたまま在り続ける。」
「星を眺めていると、一切が仮象にすぎないことがよくわかるわ。この星空が目のまやかしであるように、わたしたちの生きる世界は全体がそっくり五感の惑わしにほかならない。」
「永遠という言葉はじつにすばらしい。もともと神聖という意味だからね。大いなる感情は永遠である。それは、万物が服する相対的な制約を免れている。そこには昨日も、今日も、明日もない。算術とともに地獄の苦しみが始まるのだ。」
「でも死によって、いったいだれがあなたのお仲間になるか、わかったものじゃないでしょう?」
「そんなことはないさ。きみほど、わたしが深く信じてきた存在はないからね。」
三光長治・池上純一・池上弘子訳「コジマの日記2」(東海大学出版会)P520-521

そもそもこういう会話が「普通に」成り立つところに2人の関係の「永遠不滅」がある。魂のつながりだけでなく、理性も感情もそして思考すら同じステージでないとわかり得ないものだろうゆえ。
その意味で、残念ながらハンス・フォン・ビューローは役不足だったのかも(わからないけれど)。とはいえ、音楽史上これほどの愛憎に溢れる奇妙な三角関係に陥ったひとりであることを鑑みると、やはりこの人にも大いなる役割はあった。

ちなみに、グスタフ・マーラーが、「復活」交響曲終楽章作曲にあたり、ビューローの葬儀の際に聴いた讃美歌からインスピレーションを得たことは有名なエピソード。マーラーの手紙をひもとく。

芸術創造の本質にとってあくまで特徴的なことは、天与の着想をいかにして受けとめてかたちにするか、他ならぬそのやり方です。―
最終楽章に合唱を動員するという考えは、当時すでにながらく温めておりましたが、ベートーヴェンの上っ面だけの模倣と受け取られはしないかという懸念からますますためらいは増すばかりでした!このような折に、ビューローが亡くなり、小生もまたその葬儀に参列いたしました。―列席して永久の故郷に帰還を遂げた人のことに思いを馳せつつ浸っていた雰囲気は、まさに小生が当時抱えていた作品の精神に適うものでした。―そこへオルガンの調べの中から合唱がクロプシュトックの「復活」を歌い始めたのです!―稲妻に打たれたかのように、すべてが明瞭この上なく小生の魂のまなこに現前したのです!この稲妻をこそ、創作に携わるものは待ちわびているのであります。すなわちこの「聖なる受胎」を!
1897年2月17日付、アルトゥール・ザイドル宛
ヘルタ・ブラウコップフ編/須永恒雄訳「マーラー書簡集」(法政大学出版局)P211-212

「聖なる受胎」とは何と巧みな表現!
「復活」は、マーラーの交響曲の中でも幾分冗長でマーラーらしい分裂性を持つものだが、終楽章の崇高さと旋律の美しさ、そしてコーダにかけての巨大な音響と圧倒的な盛り上がりという点で随一といっても良いくらい。

・マーラー:交響曲第2番ハ短調「復活」
ジェシー・ノーマン(ソプラノ)
エヴァ・マルトン(ソプラノ)
ウィーン国立歌劇場合唱団
ロリン・マゼール指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1983録音)

マゼールの解釈は直線的でありながら、30数年前の風潮をなぞるかのように浪漫的でメリハリに富み、聴く者をマーラーの恍惚の世界に誘ってくれる。何よりノーマンとマルトンの歌唱の素晴らしさ(本来の指定ではソプラノとアルトであるはずだが、この録音では2人のソプラノを起用。珍しいのでは?)。久しぶりの「復活」交響曲に感無量。

おお、信じるのだ、わが心よ、信じるのだ、
何ものもおまえから失われはしない!

 

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