ミーラー・ナーイル監督作「その名にちなんで」を観る。ロシアの奇人作家ゴーゴリの「外套」をモチーフにした家族、親子の愛がテーマの映画。ちなみに「外套」は、「貧しい小官吏の男が奮発して注文した外套。仕立て上がるのを待つ間にその外套は小官吏の美しい夢になるが、初めて袖を通した晩、外套を盗まれてしまう」という物語である。
子どもの幸せを願う親の「愛」、そして親の幸せを願うようになっていく子どもの「愛」。「愛」とはお互いに築きあうものであり、その最小の単位が「家族」であり「親子」なのである。身に染みる。
映画を観る直前、日比谷でDとバランスについて語る。独身者はある意味「Meism」である。人生にとって「愛」というバランスを保つためには環境を「Me」ではなく「Us」にせねばならない。いや、というよりそうした方が良い。その話と完全にシンクロするものだから不思議であり、また面白い。そんなことは随分前から親に口酸っぱく言われていた。これまではよくわからなかった。しかし、最近は確かにその通りだと思う。
映画の後、新橋でYと会う。転職相談に始まり、「我欲」についての話に及ぶ。人間は誰でもエゴはある。だから「我欲」を否定することはない。とはいえ、やはり「Us」に状況を転換すれば自ずと「欲」は払拭されるのではないかという話を自分のことは棚に上げながらする。不思議にシンクロする。
そのあとは第一ホテルにてZとI氏を引き合わせ、こちらも転職についての相談。小1時間ほどのミーティングのあと、Yを交えて飲む。愉快だ。久しぶりに話は尽きない。3時間ほど宴を過ごして帰路につく。そして、何と新宿駅でNとばったり会う。ちょうど会社のロゴのデザインについてZと車内で話していたものだから誰かいいデザイナー知らないかと切り出したところ、Kができるという。それは知らなかった・・・。
これまた不思議なシンクロ。
ラフマニノフ:悲しみの三重奏曲第2番ニ短調作品9
ボザール・トリオ
最も尊敬する大作曲家チャイコフスキーの思いもかけない訃報に接し、2ヶ月あまりで書き上げた慟哭の作品。ある意味、師であるチャイコフスキーも親友ニコライ・ルビンシテインの死に際して傑作ピアノ三重奏曲を作曲している。ほとんど姉妹作ともいえる相似形の作品だ。深い惜別の情が悲しくも美しく歌われる。偶然なのか必然なのか、はたまた意図的なものなのか・・・。20世紀半ばになり同じロシア(当時はソ連)で、ショスタコーヴィチも親友の死に接し、ピアノ・トリオを作曲している。これらはシンクロというより常套手段みたいなものだろう。多分にロシア的。
『我々はみな、ゴーゴリの外套の中から出て来た』~ドストエフスキー
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