The Enid “In the Region of the Summer Stars” (1976/1984)

中世の騎士は名誉に欠けると思われるくらいなら死を選んだといわれる。
日本の武士道にも通じる潔さ。

中世の騎士エレックとエニードの物語。

しかしこの戦いはすぐ終わった。エレックはなかば死んだも同然の状態だったのだ。エレックが倒れたとき、エニードは彼を守ろうとした。彼女は憔悴しきった相手を攻撃したギヴレットをののしり、ギヴレットは彼女たちが身分を明かせば戦いをやめると応じた。相手がだれなのか知ったギヴレットは誤って戦いをはじめたことを友に謝罪し、友はそれを許した。ふたりはエレックの傷が回復するまでギヴレットのもとですごし、いままで以上に深く愛しあっていることに気づいた。物語のなかではさらに冒険が続くのだが、最後にふたりはエレックの故郷に帰り、エレックは父王の後を継いで王となる。
マーティン・J・ドハティ/伊藤はるみ訳「図説アーサー王と円卓の騎士―その歴史と伝説」(原書房)P112

物語の中では慈悲と智慧と勇気が不可欠であることが問われる。
本当はプライドなどという我(エゴ)は不要なのである。
そう、古来騎士たる者は勇敢で、忠誠心があり、慈悲の心をもつべきだと考えられていた。

エニドの物語は1974年に始まる。
エニドは結成当初からエキセントリックだったらしい。バンドの精神的支柱はフィンチデンという学校で、そこは才能がありながら問題を抱えた子どもたちを受け入れる実験的な場所だったといわれる。

1972年、フィンチデンの創立者で、40年以上に渡って子供たちに人生を捧げたジョージ・ライワードがこの世を去り、73年にはフィンチデン自体も閉鎖。残されたのは、将来への不安を抱え悲しみに暮れる少年たちだった。ロバード・ジョン・ゴドフリーは、近くのケント州ロムニー・マーシュに家を借り、ホームレス寸前のスティーヴン・スチュワートとフランシス・リカリッシュを誘い、バンド結成も視野に入れて同居を始めた。結果、エニドは誕生する。
IECP-10073ライナーノーツ

行き場を失った少年たちが、ここぞとばかりに集合し、そして(半世紀近く前に)ついにリリースされたファースト・アルバムの衝撃。
後年、マスターテープの紛失により、新たに一部が録り直され、1984年にリイッシューされる。

・The Enid:In the Region of the Summer Stars (1976/1984)

Personnel
Robert John Godfrey (keyboards)
Stephen Stewart (guitars)
Francis Lickerish (guitars)
Glen Tollet (bass, tuba, keyboards)
Neil Kavanagh (flute)
Dave Storey (drums, percussion)
Chris North (drums, percussion)
Neil Mitchell (trumpet)

全編、どこかで聴いた旋律が木霊する。彼らがどれほどクラシック音楽に造詣が深く、そしてそれら古典音楽が見事に革新的ロック音楽に変容し、素晴らしい物語がインストゥルメンタルで描かれる様子に言葉がない。

ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番冒頭の鐘の音を模倣した“Fool”の前奏から壮大な物語の幕開けを予感させる。”The Tower of Babel”ではコープランドの「ホウダウン」が木霊し、”The Reaper”を経て”The Loved One”ではチャイコフスキーも嫉妬しそうな美しいメロディが奏でられる。また続く”The Demon King”は一聴ムソルグスキーの「はげ山の一夜」を思わせるが、ここには間違いなくシューベルトの名リート「魔王」が下敷きになっているだろう。ほとんどエマーソン・レイク&パーマーの二番煎じのように聴こえなくもないが、とはいえエニドらしい高貴な、あるいは時に野人のような放埓さをもって(ムーグやエレキギターや)音の洪水が僕たちを襲う。

アナログ盤でいうところのB面、すなわち”Pre Dawn”から”Adieu”までの6曲は人類の創生からノアの箱舟の洪水、そして最後の審判という紀元前の世界の物語がモチーフとなり、目前に壮大なドラマが繰り広げられるのを聴くようだ。ラヴェルのボレロ、そしてベルリオーズの幻想交響曲終楽章「怒りの日」が雄渾に響き、世界の終わりを「すべては必然なんだ」と言わんばかりに憂いなしに彼らは音化する。

ナチはまた、宗教的、オカルト的、歴史的な品物の収集にも興味を示していた。彼らのなかには古代の聖遺物が超自然的な力をあたえてくれると信じていた者もいたかもしれないが、それらの品をもつ意味のほうに興味をもっていた者もいたはずだ。邪悪で正気を失っていたかもしれないが、ナチは品物がもつ象徴としての力を理解していた。
したがって彼らが古代ケルト人や北欧人の宗教的遺物を収集したのは、かならずしもそれらを使ってこの世ならぬ力をよび起こすためではなかったのかもしれない。昔のケルト人の大鍋やバイユー・タペストリーなどの品を所有することで宣伝効果あるいは文化的価値が得られればよかったとも考えられる。ナチはゲルマン民族復興の機運を盛り上げようとしていたが、そこにはゲルマンの古い民間伝承や宝物をはじめ種々の文化遺産に対する関心を盛り立てることもふくまれていた。

~同上書P240

現代世界ではあらゆるものが自己の利益のために企図され、利用されているが、果たしてそういうものも間もなく終わりとなることだろう。水の時代から火の時代に移る、そして、今や風の時代といわれ、すべてが隠し通せず、下記らかになるときだから。

水の如くに澄明な、水の如くに柔軟な、そして、水の如くに大らかなエニドの音楽に触れたとき、まるで自身の内なる本性が目覚めるようだ。


コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む