
辻邦生の旅の記録。
ぼくはあちこちをすくなからず旅した。インドもアフリカも南太平洋もそれぞれに素晴らしかった。だが、単純にぼくが幸福になれるのは、地中海にゆくときなのだ。地中海ではただ海を見、貧しげな波止場を歩くだけで、突然、充実した光のような気持に包まれる。ぼくはその一瞬の恍惚としたゆらめきの中で自分を忘れていられる。
その理由は、地中海こそがぼくらにもっとも激しく想像力をかきたてるものを持っている海だからだ。
「地中海の誘惑」
~「辻邦生全集17」(新潮社)P248
いまだ日本人にとって海外旅行など夢のまた夢であった時代の、地中海の発する誘惑と魔法。
冒頭のこの件を読むだけで恍惚とした気分を味わえる。
ジャン・グルニエが言うように、なぜ彼らはバールに坐り、ほとんど何もしないで、あのような生の充実感を持つことができるのだろうか。彼らは、お話にならないくらい貧乏だ。だが、今日暮せる以上のものは絶対に稼ごうとはしない。彼らは〈いま〉という時のなかに、まるで象嵌されたように、はまりこみ、明日のことなど考えないのだ。
「“いま”という時のエクスタシー」
~同上書P249
文明の進化とともに人間が忘れ去ったものが、そこにはあった。
現代社会の信じられない生活のスピード感のことを考えると、神経症患者が多くなるのも当然だと思う。物にはそれにふさわしい時間があるというのが、ぼくの信念だが、現代文明はそれを破壊して、無理な速度を押しつけるのだ。神経が極度に緊張するのは当然だろう。
ローマからパレルモまでぼくらは1時間で飛ぶが、ゲーテはナポリから5日間かかり、そのうえ船酔いにさんざん悩まされた揚句、ようやく魔術的雰囲気に包まれた南国の港パレルモに着くのである。
パレルモに飛行機で向う気分も悪くないが、やはりどこか具体的なものにぴったり貼りついたという感じはない。人は速さを簡便さと勘違いするが、実は違う。具体物の持つ生命感を犠牲にしているのだ。おそらくゲーテが空路パレルモに入ったら、彼の植物観はそれほど衝撃を受けなかったかもしれない。
「ローマからシチリアへ」
~同上書P252
「具体物の持つ生命感を犠牲にしている」という言葉が重い。
トーマス・マンを愛した辻邦生の感性は本物だと思う。ゲーテがイタリアに旅したのはワイマール公国での現実的で平凡な日々に窒息しそうになっていたからだそうだ。
ゲーテは感情や情熱や想像力を高揚させない科学・学問は人間に何の役にも立たないと信じた。科学は生命ある自然をばらばらに分解し殺してしまう。それをもう一度生命ある自然に戻すべきだ—ゲーテはそう考える。
「パレルモでのゲーテ幻想」
~同上書P252
図らずもルソーと同様の境地に誘われるゲーテの思考。
ならば科学と自然とをいかに両立させるかだ。
欧州を旅する辻の紀行を読みながら僕は数多の版を持つグルックの歌劇を思った。
歌劇「オルフェオとエウリディーチェ」の幻想、というより実に現実的な、人間の煩悩が引き起こす災難と、それを超える愛、慈しみの力の荘厳さ。
古い録音だが、ピエール・モントゥーの指揮する音楽に深みと勢いを、生命ある自然を僕は大いに感じる。
近代オーケストラによる分厚い音がグルックの音楽に箔をつける。罪を犯そうが、あるいは過ちを犯そうが、命そのものにアクセスできるなら、最後は愛そのものに行き着くことをグルックは教えてくれる。モントゥーの創造する音楽はどの瞬間も生き生きとし、同時に明るい。そして、3人の歌手たちの名唱は、今となっては古びた印象を与える場面もあるが、いずれもが人間らしく(?)て美しい(スティーヴンスのオルフェオは堂々たる凄味)。