
空想にふけっていたって・・・考えをまとめていたのか・・・? 作品を下げていたのか・・・? 子供っぽい虚栄心が疑問符をこうして持ちだすそのぶんだけ、何としてでも追いはらう必要があるのは、人びとがこれまであまりにもしがみついて来すぎた一つの観念である。疑問符は、他人よりすぐれている風をしたがるばかげた偏執を、どれも語るにおちている。だが他人に立ちまさることは、自分自身にうち勝とうという美しい欲望と結ばれぬかぎり、かつて大骨折りにあたいしたためしがない・・・それは単にきわめて特殊な錬金術にすぎず、しかもそのために自分の大切な小さな個性を犠牲にしなければならない・・・耐えがたいことである上に、絶対に収穫がない。
(クロッシュ氏・アンティディレッタント)
~平島正郎訳「ドビュッシー音楽論集 反好事家八分音符氏」(岩波文庫)P9-10
比較を放下して自らの信念に立ち上がるしかない。
孤高のクロード・ドビュッシー。
エロスと創造力は一体なのかどうなのか。
革新的な、いかにもドビュッシーらしい、うねりの交響的素描に僕はいつも感動する。
誰のどんな演奏でももともとの音楽的効果が抜群だろうからか、これほどに内なる官能と外環境の描写を結びつけた傑作は他をまったく凌駕する。
虚ろでない、鮮明な、そして現実的な音楽に言葉を失う。
ピエール・モントゥーの棒も何と鮮やかなのだろう。
曖昧さを排除した独墺系の権化ともいうべき「海」の真骨頂!
(第3楽章のステレオ・テイクというおまけつきがまた粋だ)
一方の、3つの夜想曲のまた素晴らしさ。第3曲「シレーヌ」における女声合唱と管弦楽との一つになった演奏に聖なる色香を思う。