モントゥー指揮ウィーン・フィル ベルリオーズ 幻想交響曲(1958.10録音)ほか

あの一貫したインスピレーションを見事に音化し、物語として構成した手腕はワーグナーに通じ、彼に影響を与えたのかと思っていたが、ワーグナーはベルリオーズを決して認めていなかった。

食後、わたしたちはベルリオーズの芸術について語り合った。「ユーゴーのなかにシェイクスピアに対する大きな誤解があるように、ベルリオーズもベートーヴェンを誤解していた。ユーゴーも、ベルリオーズも、細部にどぎつい光をあてて、さも重要であるかのように見せる。フランスの詩は、大げさにふくらませた散文にほかならない」とリヒャルトは言う。
(1871年6月9日金曜日)
三光長治・池上純一・池上弘子訳「コジマの日記2」(東海大学出版会)P457-458

おそらくフランスという国への敵愾心、というか、見下す思いがワーグナーの内にはあったのだろうと思う。あるいはまた、次のようにもコジマは日記に書く。

昨夜もまたベルリオーズが話題になった。「ベルリオーズは視覚的な要素をみごとに聴き取り、それが彼の創意を呼び起こすことになった。その点を除けば、型通りでお粗末だ」。
(1871年7月30日日曜日)
~同上書P527

バッサリと切ってしまうワーグナーの心底には嫉妬もあるのかどうなのか、この時期しばしばベルリオーズが話題に上るのは、一方で彼の天才を認める節がどこかにあるからだろう。しかし、そうはいってもベルリオーズ畢生の作「幻想交響曲」は傑作だ。

・ベルリオーズ:幻想交響曲作品14(1958.10.20-24録音)
ピエール・モントゥー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
・ストラヴィンスキー:バレエ組曲「火の鳥」(1919年版)(1956.10.29-30 &11.10録音)
ピエール・モントゥー指揮パリ音楽院管弦楽団

モントゥー十八番の「幻想交響曲」は正規録音だけで5種あるが、ウィーン・フィルとの58年録音盤は、録音の生々しさも相まって名演奏の名録音として君臨する代物(プロデューサーはジョン・カルショー)。北ドイツ放送響との最晩年のものはどちらかというと暗い音調を醸しているが、こちらは第1楽章「夢、情熱」から光輝充ちる、より柔和で明朗な音調で、同じ指揮者でもオーケストラが異なればこうも違うのかというくらい印象が異なる。それに、ワーグナーが言うように外面的な効果だけをねらったものではなく、あくまでベルリオーズの内面を抉り出す、文字通り情熱に溢れる音楽に僕は興奮する。

遠出の際、リヒャルトが馬車の中で語ったこと。音楽ではいくつかの主題を組み合わせて作曲するが、耳はそのうちのひとつしか聴き取らない。ただ他の主題が伴奏に付け加わっているために、耳の聴き取った主題の印象がとてつもなく研ぎすまされ、高められる。文芸ではこれに類した効果は見られないが、多義性とか、フモールとか、イロニーといった手法を使えば似たような効果が得られるかもしれない。わたしたちが『ドン・カルロス』を読んで感嘆したところ(ドン・カルロスとアルバが出会う場面など)はその例になるだろうし、『タッソー』に至っては全篇が類似の効果にもとづいていると見ていい。しかし文芸ではこうした効果が隠微なレベルで達成されるのに対して、音楽ではそれが明確な形をとる点が違っている。それにしても、いくつかの主題を組み立てるときに主旋律が明瞭に響きわたるように工夫しなければならないだろう。ベルリオーズにしても舞踏会の場Scène au Balでそれがうまくいっていないために、恋人のモティーフがバスのように響く結果になっている。
(1870年7月5日火曜日)
~同上書P55

ワーグナーは稀代の批評家でもあった。その博識がもたらす見解は、十分に説得力のあるものだが、しかし一方で劣等感(?)や偏見から相手を矮小化して見てしまう癖もあったのではなかろうかと思われる。その一方、逆にベルリオーズの欠点を補い、自身の楽劇として一層の多義性を獲得できたのではないかとも考えられるので面白い。その意味で、ワーグナーは心底ではベルリオーズの天才を認めていたのだろう。

モントゥーがこだわった点は、まさにワーグナーがベルリオーズの問題として認識した点を補完するように、明暗のバランスを整え、主旋律(恋人スミッソンを示す固定楽想)が明瞭に響くよう造形を整理したところだ。聴けば聴くほど味わい深い。

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