悦びでいっぱい

ザルツブルク時代のモーツァルトは、大司教からの指示でミサ曲など教会音楽をたくさん書いたことはいつだったか書いた(気がする)。いろいろな制約の中で生み出されたそれらの宗教音楽は、有名無名含めて数多あるが、この手のジャンルの音楽はなかなか聴く機会に恵まれないためせいぜい音盤などで触れるしか方法がほぼないように思われる、しかし、例えばパイヤールがかれこれ50年近く前にアランと録音した「教会ソナタ」などは、どちらかというと世俗音楽的なニュアンスに富んでおり、素人の僕の耳からするとセレナードのような機会音楽とほとんど変わらないように聴こえ、信仰心云々というよりどちらかというと仕事として作曲していたのかなとふと感じさせられる(バッハの場合は仕事であることには違いないが、そこには極めて深い神への奉仕の心と忠誠心が投影されていることが明らかだからその違いに余計にそう感じる)。
ただし、それは、モーツァルトに宗教心がなかったということではない。何だか、どんな音楽を書いても人心の深層にものすごい影響を及ぼすことは間違いないわけだし、そういう想いがあるのは当然なのだけれど、どうやら「遊び心」に溢れていることがそんな風に感じさせてくれる原因なのかもなとも考えた。

先日お借りしたモーツァルトのオルガン作品全集とやらをじっくりと聴いてみた。
これらのオルガン作品は教会のために書かれたものではない。しかしながら、ここには間違いなく神への憧憬と幸福なまでの天才の微笑がある。僕はこれらの作品のほぼすべてを初めて聴いたが、初期のものから晩年のものまで、どの作品のどこの部分を切り取ってもモーツァルトそのもので、敬虔な祈りに満ちる一方でやっぱり人間らしい愉悦に溢れている(ように僕には聴こえる)。四角四面の閉じられた世界でなく、あらゆる壁や障害を取っ払って飛翔する魂のような、そんな悦びでいっぱい。

モーツァルト:
・ピアノ組曲より序曲K.399
・アダージョとアレグロヘ短調K.594(トロッター版)
・ロンドンの練習帳
・アダージョロ短調K.540
・モルト・アレグロト長調K.72a
・フーガト長調K.401
・ジーグト長調K.574
・幻想曲とフーガハ長調K.383a
・アンダンティーノ変ホ長調K.236
・アンダンテヘ長調K.616
・アダージョハ長調K.356(K.617a)
・幻想曲ヘ短調K.608(トロッター版)
トーマス・トロッター(オルガン)

オルガンの音は基本的には抹香臭く、墨絵のような単色でありながら微妙な濃淡を示す点で、高貴で感傷的な印象(ラヴェルではないけれど)を僕は受けるが、この音盤から聞こえてくる音楽は少し違う。一言でいえばカラフルなのだ。決して堅苦しくない、畏まらない庶民のためのモーツァルト作品集(笑)。マイナーだけど、おすすめ。


2 COMMENTS

雅之

おはようございます。

神様は、バッハとモーツァルトでは、どっちの音楽を楽しまれるか?って話がありますよね。

正解はバッハではなくてモーツァルト。
なぜなら、バッハは神や宗教心の音楽なので、神様は自分や自分の仕事のことについての音楽よりも、「遊び心」に溢れたモーツァルトを好んで聴かれるだろうから。

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。

>神様は自分や自分の仕事のことについての音楽よりも、「遊び心」に溢れたモーツァルトを好んで聴かれるだろう

そうですよね。ここのところますます「遊び心」の重要性を感じます。そういう意味においても「ファジー」って大切ですね。

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