ホフマン ヴェイソヴィチ モル ヴァン・ダム ニムスゲルン フォン・ハーレム カラヤン指揮ベルリン・フィル ワーグナー 舞台神聖祭典劇「パルジファル」(1980.1録音)

「英雄精神とキリスト教—『宗教と芸術』のための補足 その3—」(1881)の書き出しは次の通りである。

人類の再生Regenerationの必要性を認めて人類を教化する可能性に思いを致すとき、さまざまな障害が立ちふさがってくる。人類の没落を肉体的な零落から説明しようとして、植物性の食物に取って代わった動物性食物が堕落の原因であると考えてきた古今の高潔な賢者たちの言説に答えを求めたとき、私たちは否応なく自分たちの肉体の変質に思い至り、損われた血液から気質の劣化が生じ、さらにそこから道徳上の禀質の劣化が生じたという結論を引き出した。
(宇野道義訳)
三光長治監修「ワーグナー著作集5 宗教と芸術」(第三文明社)P323

今の僕にとってこの論は文字通り是。何よりこの時代のワーグナーの思念の鋭敏さ、的を射た、本質的な思想に驚くばかり。知の巨人だったワーグナーは古今東西あらゆる知見を導入して、食という観点から人類の堕落を証明しようとして見せる。

飢餓こそが人間を肉食に追いやった最大の原因だとする言説にワーグナーは異を唱える。

人間を殺生や肉食による栄養摂取へと駆り立てたのが、もともと飢餓だけだったに相違ないということ、しかしこのやむにやまれぬ事態が、北方における肉食が自己保存のための義務として定められていたと信ずる人びとが主張しているように、ただ単に寒冷な地方への移動によって生じたのでないということは、次のような明明白白の事実が示すところである。すなわち、十分に穀物を摂取できる大民族は、厳しい風土においてすらほとんど菜食だけで暮らしており、それによって活力や耐久力を失うことはないのだが、このことは、菜食をしているきわだって長寿に恵まれたロシアの農民たちを見れば分かることである。菜食を主にしている日本人についても、極めて鋭敏な頭脳を持ちながら最高度に勇猛果敢であることがよく知られている。
~同上書P236

事実から、状況証拠から読み解くワーグナーの言説は実に説得力がある。そして、彼は続けと次のように書く。

人間は自然に反した栄養摂取の結果、人間にしか見られない病気で衰え、天寿をまっとうすることもなければ穏やかな死を迎えることもなく、むしろ、人間のみが知る心身の苦患や苦難に苦しみながら虚しい生を送り、絶えず死の脅威におびえながら悶々とした日々を送るのである。
~同上書P237

人類のこういった堕落を回復する手立てとして宗教に代わる新宗教の確立をワーグナーは提唱したのだが、それこそが音楽芸術(ムジークドラマ)を指していた。未だ道が公開普伝の時代でなかったがゆえの苦悩。果たして現代ならワーグナーはそのことを自覚し、自らも実践しようとしたのかどうなのか。彼の真我良心が真実を、根源をとらえていたのかどうなのか、今となっては分からない。極めつけは次の箇所だ。

人間の罪業に関する教義は、それに先立つ生きとし生けるものの一体性をめぐる認識と、感覚に基づいた見地の迷妄をめぐる認識に端を発しているのだが、私たちは感覚に欺かれて千変万化する多様性や差異に目を奪われ、生きとし生けるものの一体性を見失っている。したがってこの教義は、きわめて深遠な形而上学的認識から生み出されたものであって、婆羅門がこの生命ある世界における多彩をきわめた現象を「汝はそれなり! TAT TVAM ASI」と意味づけて示したとき、私たちとともに生を享けた生き物を殺すことは、自らの肉を切り裂き、貪り啖う所業にひとしいのだという認識が私たちのうちに呼びさまされたのであった。
~同上書P408

ここにワーグナーが最終的に至った思考のすべてが網羅されている。
そして、その実践こそが舞台神聖祭典劇「パルジファル」に昇華されるのである。

ちなみに、「1882年の舞台神聖祝祭劇」(1882)という小論でワーグナーはこう書いた。

こうして私たちは—聴覚と視覚において、私たちを押し包んでいる雰囲気が私たちの感受性の総体に及ぼした作用も手伝って—浮世離れした気分にひたることができたのであり、その自覚は、いずれその浮世に帰っていかねばならないという不安のうちに、かえって鮮明に浮き彫りにされていたのである。大体『パルジファル』という作品そのものが、浮世を離れた作者の胸のうちで芽生え、徐々に育まれたのであった。あけっぴろげな感覚と自由な心の持主なら、ペテンと欺瞞と偽善を通じて組織化され、合法化された殺人と収奪の世界を一生目の当たりに見ているうちに、時には身の毛もよだつようなむかつきを覚えて、この世を見捨てたくなるのが当然ではあるまいか? そんなとき彼のまなかいに浮かぶのはなんだろう? おそらく死の深淵である場合が多いだろう。しかし他と違った使命を与えられ、そのために運命から特別の扱いを受ける人間の前には、浮世の真実の写し絵そのものが、救済の予兆を秘めたこの世の内奥の相を現わすだろう。そしてこの正夢にも似た写し絵のために欺瞞に満ちた現実世界を忘れていられること、—苦悩にまみれた誠実を貫いてこの世の悲惨を認識した当人は、まさしくこの一事を自らの誠実に与えられた褒美と見なすのである。そんな彼が、その写し絵を書き上げるさいに誤魔化しや欺瞞の手を借りることなど、そもそも有り得ないことであった。
~同上書P366-367

リヒャルト・ワーグナーの報告を読み、僕は、カラヤンが満を持して録音した晩年の「パルジファル」の録音を思い出す。

・ワーグナー:舞台神聖祭典劇「パルジファル」
ペーター・ホフマン(パルジファル、テノール)
クルト・モル(グルネマンツ、バス)
ドゥニャ・ヴェイソヴィチ(クンドリー、メゾソプラノ)
ジョゼ・ヴァン・ダム(アンフォルタス、バス)
ヴィクター・フォン・ハーレム(ティトゥレル、バス)
ジークムント・ニムスゲルン(クリングゾール、バス)
クラエス・アーカン・アーンシェ(第1の聖杯騎士、テノール)
クルト・リドル(第2の聖杯騎士、バス)
マリヨン・ランブリクス(第1の小姓、ソプラノ)
アンネ・イェヴァング(第2の小姓、アルト)
ハイナー・ホプフナー(第3の小姓、テノール)
ゲオルグ・ティッヒ(第4の小姓、バス)
バーバラ・ヘンドリックス(第1グループ第1の花の乙女、ソプラノ)
ジャネット・ペリー(第1グループ第2の花の乙女、ソプラノ)
ドリス・ゾッフェル(第1グループ第3の花の乙女、メゾソプラノ)
インガ・ニールセン(第2グループ第1の花の乙女、ソプラノ)
オードリー・ミッチェル(第2グループ第2の花の乙女、メゾソプラノ)
ロハンギス・ヤシュメ(第2グループ第3の花の乙女、コントラルト)
ハンナ・シュヴァルツ(声、アルト)
ベルリン・ドイツ・オペラ合唱団
ワルター・ハーゲン=グロル(合唱指揮)
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1980.1録音)

ちょうどこの時期、カラヤンは発作を起こし、以後身体に障害を残す状態に陥っている。
ベルリン・フィルとの40回にも及ぶリハーサルを経て生み出された「パルジファル」は、畢生の録音であり、幾度聴いても新たな発見がある、美しい演奏だと思う。
カラヤンらしい磨かれた、絶大なるエネルギーを放出する傑作は、40余年を経た今も録音史上に燦然と輝く逸品として光彩を放つ。

第1幕は前奏曲から一部の隙もない名演奏。透明感はもちろん重心の低い、晩年のリヒャルトが目指した「再生論」に根ざした(?)麗しい音楽が心に響く。
第1幕に首っ丈。

崇高なる場面転換、音楽がうねる。
そして、ヴァン・ダムによるアンフォルタスの言葉に心が動く。

私は聖杯を仰ぐことを
渇望せねばならない。
魂の奥底から懺悔をして
救世主の御許に到達せねばならない。
時は近づいた。
一条の光がこの聖餐式にさし、
聖杯の覆いが取られる。
(ぼんやりと前を見つめながら)
聖杯に集められた救世主の血が
燃えるように力強く輝きだす。
すると痛みと至福の喜びが私の体内を走り、
聖なる血が
私の心臓に流れ込むのを感じる。

井形ちづる訳「ヴァーグナー オペラ・楽劇全作品対訳集2―《妖精》から《パルジファル》まで―」(水曜社)P306

それに対する少年たちの、パルジファルの到来を待つ希望の声よ。

共に苦しみて知に至る、汚れなき愚者、
私が選んだその男を待ちなさい!

~同上書P307

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