カラヤン指揮ベルリン・フィル R.シュトラウス 交響詩「死と変容」(1972.11録音)

あくまで絶対音楽として表現しようとしたのがカラヤンの演奏だった。
ここには詩もなければ、標題的な要素もない。耳に心地の良い音楽が、機能美の極みのうちにアウトプットされている、ただそれだけだ。

後になって作曲家は次のように話しているそうだ。

死と浄化はまったく幻想的な構想だった—その根底にはいかなる体験も存在しないし、私が大病したのはその2年後だった。それはほかの場合と同様の思いつきに過ぎなかった。つまり(ニ短調で始まってニ短調で終わる)マクベスや、(ホ長調で始まってホ短調で終わる)ドン・フアンの後で、ハ短調で始まってハ長調で終わる曲を書きたいという、音楽的要求に過ぎなかった。
田代櫂著「リヒャルト・シュトラウス—鳴り響く落日」(春秋社)P91

人は標題というものに引っ張られる傾向がある。
交響詩と名乗りながら、まして「死と変容」と記しておきながら単に音楽的要求に過ぎなかったというのは勝手な話だが、そのことを承知でカラヤンはいつものように外面を磨きに磨き上げ、音楽を創り上げていることが素敵だ。

・リヒャルト・シュトラウス:交響詩「死と変容」作品24(1888-89)
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1972.11録音)

生と死がまるで平和と戦争であるかのように誤解されているが、実際には逆なのかもしれぬ。冒頭ラルゴに見る静寂にはすでに生という牢獄から解放される喜びが満ちている。しかし、人生の中で多くの悪因を蒔いてきた彼にとって解脱は決して容易くなかった。

一般的には死の恐怖と闘う作曲家だと認知されるが、少なくともカラヤンの演奏を聴く限りにおいてそうは思えない。勇猛果敢に生の苦悩と闘わんとするシュトラウスの煩悩が詩の静寂とせめぎ合うのだ。

いや、これ以上は止そう。何にせよこれも僕の勝手な解釈だから。
人はそうやって勝手に妄想し、音楽を聴き、物事を判断する。事実は唯一つ。ただそこにそれがあるだけだ。それにしてもカラヤンの再生するシュトラウスの生命力漲る力強さよ。じっくりと稀代の名演奏に耳を傾けようではないか。
リヒャルト・シュトラウス160回目の生誕日に。

過去記事(2009年7月16日)


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