
私の新しい作品は、叙情的英雄的シンフォニーと名づけることができるだろう。その基本的な理念は—人間の体験と誰もが確信する楽天主義である。私はこの交響曲の中に、大いなる精神的葛藤の悲劇的衝突を通して、世界観としての楽天主義を主張したかったのである。ソビエト作曲家同盟レニングラード支部での交響曲の討論の際、若干の同志たちは第5交響曲を作曲家の自伝的な作品と名づけている。私はこの判断はある程度正しいと考える。私の意見では、すべて芸術家の作品には自伝的特質がある。どんな作品でも、作者の生きた人間を感じとることができる。
~「ショスタコービッチ 交響曲5」(全音楽譜出版社)P7
僕の場合、エフゲニー・ムラヴィンスキーの解釈がデフォルト。

昔、レナード・バーンスタインを聴いたとき吃驚した。
(こんなにも印象が違うのかと。何て陽気なショスタコーヴィチであるのかと)

そして、ベルナルト・ハイティンクを聴いたときも、驚いた。洗練された(という表現が正しいかどうかは横において)、いかにも西側的という、否、これぞ楽天的という音の具合に、なるほど、こういう演奏も良いものだと膝を打った記憶がある。
西洋的二言論の極致のような音楽は、作曲家自身が言うように「悲劇的かつ緊張の第1楽章を、人生肯定の楽天的プランとしての終楽章で解き放とうとしているのは間違いない。どこまでも明朗な音調が、そのことを顕示する。
・ショスタコーヴィチ:交響曲第5番ニ短調作品47(1937)(1981.5.21-23録音)
ベルナルト・ハイティンク指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
第1楽章モデラート―アレグロ・ノン・トロッポでの終盤、フルートが「カルメン」の「ハバネラ」の引用を奏でるシーンの、ややテンポを落としての場面が印象的。
(僕の意識は思わずここで釘付けになった)
第3楽章ラルゴの不気味な平穏から、終楽章アレグロ・ノン・トロッポの歓喜の爆発がハイティンクのショスタコーヴィチの真骨頂か。バーンスタインほどではないが、コーダの気迫と推進力が素晴らしい。
ハイティンクによるセットは、例のヴォルコフ編による「証言」の直後に初めて西側諸国に現れたものゆえ、「証言」をもとにした新たな解釈が織り込まれているだろうという予測もあるが、詳細はわからない。しかしながら、少なくともショスタコーヴィチの二枚舌的側面は随分スポイルされているように思われ、あくまで純粋器楽交響曲として解釈されているように見える。
パロディーの言葉に類したものに、アイロニーやその他様々な二重の意味を込めて使われる他者の言葉というのがある。こうした場合にも他者の言葉は、それに敵対した志向性を伝えるために使用されるからである。実際の日常生活的発話においては、他者の言葉のこうした使用はきわめて人口に膾炙しているが、中でもその使用が頻繁なのは対話においてである。対話では、話す者が相手の主張を文字通りに反復しながら、そこに新しい評価を組み入れたり、疑義や憤慨。アイロニー、嘲笑、愚弄等々といった自己流の様々なアクセントづけを施したりすることが実に多い。
~ミハイル・バフチン/望月哲男・鈴木淳一訳「ドストエフスキーの詩学」(ちくま学芸文庫)P391-392
音楽におけるショスタコーヴィチの引用も同じような意味合いがあるように思う。
そして、作曲家が仕込んだアイロニカルな側面をハイティンクはあえて排除した。
(こういう表裏のない、思念の浅薄な、すっきりしたショスタコーヴィチがまた良い)









