フラグスタート スヴァンホルム マルクヴォルト ヘルマン ペルネルシュトルファー フルトヴェングラー指揮ミラノ・スカラ座管 ワーグナー 楽劇「ジークフリート」(1950.3.22Live)

淡々と進む室内楽的な静けさが美しい。
しかし、物語は「指環」の中で実に重要な転換点を示す。
楽劇「ジークフリート」の、人間的情感が滲み出る終幕こそ、フルトヴェングラーの真骨頂だろう。

遺稿集から「混沌と形象」、その最後に巨匠は次のように書く。

芸術としての音楽は共同体を前提としている。造形芸術や文学の場合も、そうでないわけではない。しかし音楽界、とりわけ公開の場においては、この共同体が聴衆として直接的な、いわば人格化された役割を演じてきた。造形芸術家の社会においては、今日しばしば市場からの独立ということが礼讃され、高く評価されている。音楽に関するかぎり、そのようなことは考えられない。ここではいぜんとして、個人の、いわゆる大衆的成果からの独立ということが極端な個人主義であると見なされている。それのみか、音楽が現在においても共同体を前提としているという事実は、他のいかなるものにもまして、私たちの人間、自然、神との結びつきを失うべきではないとの警告であるように思われる。
この共同体の意義についての自覚が、私のこの論述全体の根底をなしている。肝要なものは、つねに、あらゆる芸術の背後に立ち、芸術によって表現される人間である。芸術とは、芸術を創る人間のことである。私が現代の人間を信じるかぎり—もちろんそれは、自己の思考の牢獄に囚われたあの偏狭で不自然な変種だけでなく、広さ、深さ、愛、熱情と認識を具えた現代人の全体を意味するわけであるが—、現代人の芸術によせる私の信頼と希望も裏切られることはないであろう。

(1954年)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー/芦津丈夫訳「音楽ノート」(白水社)P195-196

現代人の思考からの脱却、すなわちそれは解脱であるが、を信じる巨匠の言葉はまさに人間的だ。そして、芸術を創る人間を芸術としたフルトヴェングラーの音楽の本質が、楽劇「ジークフリート」に如実に顕れる。

第3幕第3場、ジークフリートとブリュンヒルデの真の邂逅。ジークフリートの覚醒のシーンが美しい。フラグスタートの歌唱が絶品!

ブリュンヒルデ
 私の苦しみの闇に、太陽の光がさすわ!
 おおジークフリート! ジークフリート!
 私の不安を見て!
 私は不死身でした! これからも不死身でしょう、
 不死身のままあなたを憧れ、甘い歓びに浸り、
 不死身のままあなたの幸福を願っています!
 おおジークフリート! 素晴らしい人よ! 世界の宝よ!
 大地の生命よ! 晴れやかな英雄よ!

井形ちづる訳「ヴァーグナー オペラ・楽劇全作品対訳集2―《妖精》から《パルジファル》まで―」(水曜社)P165

・ワーグナー:楽劇「ジークフリート」
キルステン・フラグスタート(ブリュンヒルデ、ソプラノ)
セット・スヴァンホルム(ジークフリート、テノール)
ペーター・マルクヴォルト(ミーメ、テノール)
ヨーゼフ・ヘルマン(さすらい人、バス)
アロイス・ペルネルシュトルファー(アルベリヒ、バス)
ルートヴィヒ・ヴェーバー(ファフナー、バス)
エリーザベト・ヘンゲン(エルダ、メゾソプラノ)
ユリア・モール(小鳥の声、ソプラノ)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ミラノ・スカラ座管弦楽団(1950.3.22Live)

ミラノの聴衆に、言葉ではなく音楽で語りかけるフルトヴェングラーの熱が、徐々に聴衆の心を溶かすようだ。溌剌とした、悪魔的な音楽が聴衆の心とついに一体になったとき、真の芸術が生まれたのだ。それは、晩年のワーグナーが志した、宗教に代わる真の芸術の具現化に他ならない。

トレプトウ ウェーバー フランツ コネツニ フラグスタート ヘンゲン フルトヴェングラー指揮ミラノ・スカラ座管 ワーグナー 楽劇「ワルキューレ」(1950.3.9Live) フランツ ペルネルシュトルファー マッティエルロ トレプトウ ザトラー ヘンゲン フルトヴェングラー指揮ミラノ・スカラ座管 ワーグナー 楽劇「ラインの黄金」(1950.3.4Live)

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