
亀山郁夫さんは書く。
今、私たちに求められる態度とは、毀誉褒貶ではなく、こうした正の評価と、「トランス状態のやっつけ仕事屋」といた負のレッテルとの境界から浮かびあがる、よりリアルで生々しいショスタコーヴィチ像である・スターリン主義の犠牲者という一方的な光で照らし出すのではなく、また、絶大なスターリン権力に対して二枚舌で対抗する芸術家としてばかりではなく、それこそ大衆文化からもっともシリアスなソヴィエト文化にいたるまでの偉大な創設者、体現者として、その創造に勤しんできた一人の人間として、彼の「やっつけ仕事」の実態をしっかり見つめるべきである。
~亀山郁夫「ショスタコーヴィチ 引き裂かれた栄光」(岩波書店)P7-8
確かに、21世紀の4分の1が終らんとする今こそショスタコーヴィチの実態を見つめるべきときだと思う。(反ショスタコーヴィチの急先鋒たる作曲家フィリップ・ゲルシコーヴィチの「トランス状態のやっつけ仕事」というレッテルは言い得て妙だけれど)
二十面相ではないのかと思われるほど、ショスタコーヴィチにはいろいろな顔があった。
「やっつけ仕事」だろうと何だろうと、彼の音楽には人を惹きつける力があり、また色香がある。(専門家でさえ舌を巻いたこれほど魅力的な音楽が他にあろうか)
1960年9月、ブリテンは初めてショスタコーヴィチと会った。ロンドンのロイヤル・フェスティヴァル・ホールの同じボックス席で、件のロシア人作曲家のチェロ協奏曲第1番の英国初演を聴いたのである。二人の作曲家は互いを深く尊敬しあい、その後も何度か会った。最後となった1972年にはショスタコーヴィチ夫妻がレッドハウスに滞在、ショスタコーヴィチはブリテンの書きかけのスコアを見るという稀な特権に浴した。《ヴェニスに死す》だった。ブリテンは《放蕩息子》をショスタコーヴィチに献呈、1970年には自らに捧げられたショスタコーヴィチの交響曲第14番の、ソビエト連邦外での初演を指揮した。
~デイヴィッド・マシューズ著/中村ひろ子訳「ベンジャミン・ブリテン」(春秋社)P171


互いに刺激し合い、切磋琢磨できるライヴァルがあることは素敵なことだ。
こういう状況を鑑みるに、ショスタコーヴィチの仕事が「やっつけ」であるようにはどうしても僕には思えない。彼がただ速筆だったという事実だけで貼られた負のレッテルもまた、ある意味正の評価のためのスイッチに過ぎない。
ショスタコーヴィチの協奏曲でソロを弾いたのが、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチだった。ブリテンはロストロポーヴィチの演奏に興奮し、翌日会って、自分といっしょにオールドバラで弾くためのソナタを書きたいと申し出た。これが、ブリテンの後半生における、まことにあたたかい、まことに実り多い友情の始まりだった。
~同上書P171-172
ベンジャミン・ブリテンにとっては、年下のロストロポーヴィチもかけがえのない盟友だった。ロストロポーヴィチのために書かれたチェロ作品はいずれもが絶品。


そしてまた、二人が共演した数多の演奏は、丁々発止の体を表し、聴く者の心を大いに刺激する。
1934年8月14日から9月19日にかけて作曲されたチェロ・ソナタ。シリアスさと大衆文化的要素を併せもつ傑作。まして、ロストロポーヴィチが演奏するなら、その相反する二面が止揚、昇華され、完全なる音楽として創出される。
(第2楽章アレグロの狂喜乱舞の姿こそ、二枚舌ショスタコーヴィチの真骨頂)
(当時の、ソ連国内ではまさにスターリンによる大粛清が行われていたという事実)
オールドバラ音楽祭での実況録音では、ピアノ伴奏を受け持つブリテンの興奮が音に刻印される。終楽章アレグロの欣喜雀躍!
ぼくは今日、スタハーノフ主義者たちの大会の閉めの会議を訪問するというたいへんな幸せを体験できた。スターリン、ヴォロシーロフ、シュヴェルニクの演説を聴いた。スターリンの演説を聴いたあと、ぼくは完全に度を失ってしまい、会場につめかけた全員と「ウラー!(万歳!)」を叫び、果てしもなく拍手しました。彼の歴史的演説は、新聞で読むことができるでしょうから、それについて述べることはしません。むろん、今日は、ぼくの人生でももっとも幸福な一日です。ぼくは、スターリンを見、スターリンの演説を聴いたのですから。
~亀山郁夫「ショスタコーヴィチ 引き裂かれた栄光」(岩波書店)P149-150
1935年11月、クレムリンで開催された第1回ソヴィエト・スタハーノフ労働者大会に参加してのショスタコーヴィチの言葉には、スターリンへの讃辞が込められている。
信じられないことだが、大粛清など知る由もなかった国民は皆、そんな幻想の中にあったということだ。そういう状況の中でチェロ・ソナタは生み出されている。

