
ショスタコーヴィチが交響曲第14番を構想するにあたって影響を受けた作品の一つにストラヴィスキーの「レクイエム・カンティクルズ」がある。

これは巨匠の最後の十二音技法で書かれた曲で、決して耳障りの良い音楽とは言えないが、しかし、僕はここに、ロシアならではの大地から湧き立つ、土俗的・原初的な音響を感じとり、妙に心が動くのを感じる。そして、同時にそこに、イコン作家アンドレイ・ルブリョフの奇蹟を見るのである。

アンドレイ・タルコフスキーの件の映画において主人公ルブリョフを演じたのはアナトーリー・ソロニーツィンだが、アナトーリーの兄アレクセイがタルコフスキーの印象を書き残しており、その記述が実に興味深い。
私たちを迎えたのは背の低い、一見青年のような人物だった。こわい黒髪、ブラッシのような口ひげ、黒い、そして輝く目。
かれは日常の平凡なことを話しはじめたが、会話はたちまち文学や、芸術に移った。
私は『誰がために鐘は鳴る』を読み終えたばかりで、ヘミングウェイに感動していた。私はヘミングウェイの小説は好きかとたずねた。
彼はからかうように笑って、
―あれは西部劇さ。
私はびっくりして、口を開けていたらしい。
―きらいなんですか。
―「きらい」というのは? 西部劇と言ったでしょう。ドラッグ・ストアの中のように、なんでもはっきりしているのがアメリカ文学です。
たしかにそれはそうだ。かれは気取っているのか、それとも誠意をこめて話しているのか。
先般、雑誌で読んだスタインベックの小説『二十日鼠と人間』の印象が新鮮だった。たぶん、このような文学こそ彼の気に入っているはずだ。
―あの書きようはもっとひどい。心理劇。
かれは弟を見つめた。
―あのねぇ、トーリャ、面白いのは、神秘にかかわる芸術だ。たとえば、マルセル・プルースト。
かれは小説『スワン家のほうへ』の、少年が日暮れの道をゆく場面を要約して聞かせた。道をゆくものの移動につれて深い谷間の三つの鐘塔が向きを変え、ばらばらになり、ひとつに融け合う。少年は奇妙な動揺をおぼえ、そのことがかれの心を不安にする。なぜ、なにがかれを苦しめるのか。家に着いても、少年の動揺は消えない。そのときかれは机にむかって、自分の印象を書きとめる。そしてかれの心は落ちつく。
―いいかい、トーリャ。
話に熱中した監督が言う。
―ここには言葉では伝えられない関係がある。ぼくたちの映画では、ぼくたちは同じ方向に行くのだ。君は何よりもむずかしいことをやらねばならない。きみの主人公が沈黙の誓いを立てるからだ。いいかい。
~落合東朗著「タルコフスキーとルブリョフ」(論創社)P41-43
「面白いのは、神秘にかかわる芸術だ」というのが、タルコフスキーらしい。
そして、僕は、ストラヴィンスキーの作品にも、タルコフスキーが言うロシア的神秘を観るのである。

ところで、芸術は学問同様、世界をとらえる手段であり、いわゆる〈絶対的真理〉へ向かう人間の動きの道のりのなかで、世界を認識する道具なのである。
しかしながら、ここで、人間の創造的精神を具体化するこれらふたつの類似は終わっている。あえて主張したいが、創作とは発見ではなく、創造なのである。
いまわれわれにとってはるかに重要なことは、さらに明確に相互間の境界を定めること、学問的認識と美学的認識というふたつの認識形式のあいだの原理的違いを認めることである。
~アンドレイ・タルコフスキー著/鴻英良訳「映像のポエジア―刻印された時間」(キネマ旬報社)P57-58
どこまでいっても人間に「絶対的真理」を獲得するのは困難だが、タルコフスキーは学問には無理であっても芸術にはそれはできると確信していたのだろうと思う。そういうタルコフスキーの思念を、感覚を、もっと早い段階でストラヴィンスキーは体得していた。
美学的な学説、芸術哲学、さらには音楽家が自分の作品を産み出しつつ味わう苦しみや、詩的霊感の訪れにさいして味わう至福のロマンティックな記述を本書に探しても、同様に無駄である。創造的な音楽家として、作曲とは、私が遂行すべく定められていると感じている日々の務めである。私は作曲に向いているから、また作曲せずにはいられないから作曲するのだ。あらゆる器官が恒常的な活動状態に維持されていなければ委縮するのと同様に、作曲家の諸能力も努力と訓練によって支えられていなければ、弱まり、また麻痺してしまう。素人は、創造するためには霊感を持つ必要があると想像する。それは間違いである。
~イーゴリ・ストラヴィンスキー著/笠羽映子訳「私の人生の年代記―ストラヴィンスキー自伝」(未來社)P203
ストラヴィンスキー監修の下、ロバート・クラフトが指揮したストラヴィンスキー作品集を聴いた。
いずれもが挑戦的で、また革新的な(しかし、どこか懐かしい)音楽ばかりだ。
「聖なる」音調に中にある、打楽器(シロフォン、ヴァイブロフォーン、ベル、チェレスタなど)の、滑稽な、軽妙な音調こそ、死者を目覚めさせるだけの「勢い」があろう。まさにショスタコーヴィチが交響曲第14番で試みようとした恐怖と希望の表裏一体がここにある(ショスタコーヴィチが創作に当って、ストラヴィンスキーを参考したのは間違いないだろう)。
一般的「鎮魂曲」の概念を超えた至高のレクイエム。