ディーナ・ウゴルスカヤ シューベルト 3つのピアノ曲D947(2019.1録音)

フランツ・シューベルト。
死の年の、息の長い、澄明な3つのピアノ曲D946は、僕の愛聴曲だ。世界にはこの曲の数多の名演奏がある。どんなピアニストの演奏でも、死の淵を彷徨うような哲学的な深遠さと、未来への一条の希望の光が差す瞬間が感じられる逸品だ(ブラームスによって見出され、1868年にようやく出版された)。

癌のため46歳で急逝したディーナ・ウゴルスカヤの、死の年の最後の録音。
最後だから余計にそう感じるのかもしれないが、生と死の間を彷徨い、何とか生きることへの希望を刻み込む見事な演奏に僕は思わず拝跪する。

・シューベルト:3つのピアノ曲D946(1828)
ディーナ・ウゴルスカヤ(ピアノ)(2019.1録音)

第1曲変ホ短調 アレグロ・アッサイは、怒涛のような、不安定さを煽る主部に安らかな中間部の対比が美しく、ディーナは思念を込め、歌う。ここでの彼女はシューベルトの魂に同期する。

そして、渾身の第2曲変ホ長調 アレグレット主部の暗く透明な美しさ。中間に挟まれる2つのエピソードがまたシューベルトの激情とディーナ本人の苦悩と安寧を見事に示していて、言葉を失う。まるで生きものであるかのような存在感。絶品だ。

第3曲ハ長調 アレグロはシンコペーションを伴なう主部の迫力にディーナの生命力を感じる。生き急ぐのか、疾風怒濤の音楽の鋭さに、あるいは美しさに心が動く。

シューベルトの音楽は大抵が長尺だが、そこにはあらゆる情感や思念が詰まっていて、一度や二度聞いただけではその神髄はつかめない。しかし、一度のその味わい深さをひとたび覚えてしまったらもはやその魅力から簡単に抜け出すことは不可能だ。

「エンジニア、どうかお聞きください。どうかよく心にとめておいていただきたいのですが、死に対して健康で高尚で、そのうえ—これはとくに中添えたいことですが—宗教的でもある唯一の見方とは、死を生の一部分、その付属物、その神聖な条件と考えたり感じたりすることなのです。—逆に、死を精神的になんらかの形で生から切り離したり、生に対立させ、忌わしくも死と生を対立させるというようなことがあってはならないのです。それは健康、高尚、理性的、宗教的の正反対ともいえましょう。古代人は、彼らの石棺を生命や生殖の寓意のみならず、淫猥な象徴で飾りさえしました。—つまり古代人の宗教心からいえば、神聖なものは淫猥なものと同意義である場合がきわめて多かったのです。古代人は死を尊敬する道を知っていたともいえます。死は生の揺籃、更新の母胎という意味で、尊敬さるべきものなのです。生から切り離された死は、怪物、漫画—そしてさらに厭うべきしろものになりさがるのです。独立した精神的力としての死はきわめて放縦な力であって、その罪悪的引力は実に大きなものと思われます。しかし、それに人間精神が共鳴する場合は、これ以上に恐るべき倒錯はないこともまたたしかです」
トーマス・マン/高橋義孝訳「魔の山」(上巻)(新潮文庫)P419

セテムブリーニの言葉に最晩年のシューベルトの音楽の力を思う。死は終りではなく始まりであり、生はまた始まりでなく終わりでもある。メビウスの帯のように。

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