科学の進歩によって物質的な豊かさを享受したことで、大いなる幸福を得たと人々は誤解する。
そのことを指摘せんがため、フョードル・ドストエフスキーは最晩年、「カラマーゾフの兄弟」を書いたが、それは未完に終わった。
1876年1月の日記に作家は書く。
とはいえ、こうした歓喜も人間の一代もつかどうか、おぼつかないものである! 彼らもそのうちに忽然と目がさめて、自分たちの生命はすでに亡びている、精神の自由も意志も個性もなくなっている、なにもかもみんな誰かが一時に盗み去ってしまった、ということに気がつくであろう。彼らの顔には人間らしい面影が消え失せて、畜生のような奴隷の相好がこびりついている。ただ畜生は自分が畜生であることを知らないけれども、人間は自分が畜生になったことを自覚する、ただそれだけの相違があるばかりだ。こうして、人類は腐敗してゆくのだ。自分の生命がパンのために、「パンに変えられた石」のために奪われたのを知った人々は、全身ことごとく悪病に包まれて、苦痛のあまりわれとわが舌をかむであろう。この時はじめて人々は、無為の中に幸福はない、労せざる思想は自然と消えてゆくものだ、自己の労働を犠牲にしないでは同胞を愛することができない、ただの生活は実にいまわしい、幸福は幸福の中になくて、ただその獲得の中にのみある、ということを悟るであろう。つづいて、倦怠と憂愁がおそうてくる。すべてはなしつくされて、もはやなにもすることがない。すべてはことごとくわかりきって、もはや知るべくなにものもない。自殺者が群れをなして現われてくる。しかも、今どきのように、隅っこの方でこそこそとやるのではない。人々は群れをなして一つところに集まり、互いに手と手をとり合いながら、ほかのあらゆる発見とともに与えられた新しい方法によって、一時に何百人という人間が自滅してしまうのだ。その時には残った連中も神に向って、「神様、あなたのおっしゃったことは本当でございました、人はパンのみで生きるものではありません!」と叫ぶかもしれない。
~埴谷雄高「ドストエフスキイ その生涯と作品」(NHKブックス)P157-158
ドストエフスキーの先見。ほとんど150年後の現代を予言する思念だ。
それは、物質万能主義の成れの果て。
ブルーノ・ワルターが1925年7月22日に、トーマス・マンに宛てた手紙には次のようにある。傑作「魔の山」の読了の報告である。
「魔の山」を読了しまして、あなたになにかを言わねばならぬ気がします—しかし何を言ってよいか、分からないのです! 私の信ずるところでは、もっとも美しく、きわめて深遠な今度のご創作で、すばらしい一時を過ごしました。この作品には—これは「とりわけ私の気づいた」ことですが—名人芸の最高の成熟と—青春—があります、およそ詩人が若くありうるかぎり若々しく、しかも善意に満ちた無類の叡智をあわせもつ作です。このような飲物を何年も味わったことがないのです!—ところで、純真というものを描き出そうとなされたとき—「白痴」のドストエーフスキーのように、「ドン・キホーテ」のセルバンテスのように—あなたのご執筆にも、病気が役だつことになった点に、ご注目されたでしょうか? 本来は尋常なものであるべき純真さは、なんらかの異常性によって補われねばならぬようです。それは文芸作品にのみ存在するものです、しかし詩人は、真理の予見者で予言者は、ただこの方法でのみ、それを見いだし描き出すやに思われます。どんなにすばらしい時間を、この本とともに過ごしたかは、先ほど申し上げました。むしろ時間を超越していました—奇妙なのは、この本が形而上的なものについて語るだけでなく、音楽と同じように、形而上的なものの領域に移行することです。—そしてなんという善意が、繊細さが、赦しのある理解が、そこには含まれていることでしょう—このおおらかで賢明な人間性の基音こそ、まことに私を満足させてくれたものであります。
(1925年7月22日付、トーマス・マン宛)
~ロッテ・ワルター・リント編/土田修代訳「ブルーノ・ワルターの手紙」(白水社)P211
ブルーノ・ワルターの先見もドストエフスキーの感性にまったく近い。それはもちろんマンの方法にも通じることだ。彼らは真理がわかっていたことは間違いない。
ワルターはグスタフ・マーラーを師と仰いだ。
そして、マーラーはドストエフスキーの思念に触れ、信仰を一層篤く紡いだ(彼の座右の書は「カラマーゾフの兄弟」だった)。
・マーラー:大地の歌
ユリウス・パツァーク(テノール)
キャスリーン・フェリアー(コントラルト)
ブルーノ・ワルター指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1952.5.18Live)
交響曲「大地の歌」の第1楽章「大地の哀愁に寄せる酒の歌」の有名なフレーズ「生は暗く、死は暗い」こそ大いなる真理の最重要のものの一つだ。生と死は一致する。そこには肉体という隔てがあるのみで、肉体のこちら側かあちら側かを示しているに過ぎない。
ユリウス・パツァークの命懸けの歌唱が、その誠意が美しい。そしてもちろんワルター指揮するウィーン・フィルの奏でる音楽が生き生きとし、哀しい。また、第3楽章「青春について」におけるパツァークの歌唱も直前のスタジオ録音での歌を凌ぐ勢いだ。
どの楽章も涙なくして聴けぬ臨場感に溢れるが、やはりキャスリーン・フェリアーの歌唱による終楽章「告別」がオーケストラ共々渾身の出来。
世界が陰陽二気の相対の中にあるものの、いずれ近い将来それらが一つになること(万法帰一)をマーラーはわかっていた。おそらくそのことについてワルターも師から聞いて知っていたのではないか。最晩年のフェリアーの、黄泉の国からの捧げるかのような歌に言葉がない(中間の管弦楽間奏部の慟哭があまりにも壮絶で美しい)。
「永遠に・・・」。