ジュリーニ指揮ロサンゼルス・フィル ブラームス 交響曲第2番ニ長調作品73(1980.11録音)

ブラームスの作品の中でも最愛の一つである交響曲第2番ニ長調。
明朗かつ解放感に満ちる音楽をジュリーニは重戦車のような解釈で、どちらかというとその明朗さをあえてスポイルし、むしろ対極にある交響曲第1番ハ短調のあり方に近い方法で料理する。これがまた別の曲を聴くようで素晴らしい(解釈によって聴こえ方がこうも違うのかという典型例だ)。

この曲は、昔から、私があらゆるブラームスの音楽の中で最も好きなものの一つだった。いまどうして、これが好きだったかとふりかえってみると、それは私が、ここに、のびのびと流れてやまない解放感の明るさ、生きいきとした豊かさを感じていたからだったような気がする。「ブラームスによる最も《自発性にとんだ》音楽の典型がここにある」といってもよいだろう。彼の大作の中でも、この曲は、つくられたというより、全体が一つとして最初から構想されたという感じの最も強いものといってもよい。その点でもこれは、特に苦労の後のいちじるしい『第一交響曲』とは極度に対立する。
あるいは「何かが終わった」のではあるまいか? 『第一交響曲』と『第二交響曲』の間には、この両者をへだてる何かがあった、といってもよい。

「吉田秀和全集2 主題と変奏」(白水社)P234

この後、吉田さんの分析と推測は続く。中で彼は断言めいたことは避けるものの、やはり興味深い推量を披露する。

ペルチャッハのヴェルター湖畔での夏の休暇は、こうしてブラームスにとって記念すべきものとなる。彼には珍しい速さで作曲された『第二交響曲』の全体にみなぎる、満ちたりた、明るい感じは、『第二交響曲』のような傑作を書き上げたという事実とならんで、いやそれ以上に、彼の心の最も深いところで、何かが呪縛から解き放たれたことを物語っているように、私には思われる。しかもこれが、クララ・シューマンをわざわざ招いた夏休みの中で、実現したというのに、私は、もう一度、注目する。
二人の間に、何か決定的なことがあったのではないか? それが何であるか、私はまだ、具体的に語るだけの用意はないが。

~同上書P245

残念ながらブラームス本人はクララとの関係にまつわる決定的な証拠を一切残していない。
ただおそらく、かつてバーデン=バーデンにあるブラームスの家を訪れたときに、二人の関係の妙な深さを何となく感じとった僕にとっても、それが何であるかを語るのは難しいが、吉田さんが言う「何か決定的なこと」があったであろうことは確かなように思う。

そんな明るい交響曲第2番が、ジュリーニが振ると不思議に暗く、重くなる。
しかし、それがまた良いのである。

・ブラームス:交響曲第2番ニ長調作品73(1877)
カルロ・マリア・ジュリーニ指揮ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団(1980.11録音)

個人的に美しいと思うのは第2楽章アダージョ・ノン・トロッポの愁いを帯びた秋のような枯淡美(?)と終楽章アレグロ・コン・スピーリトの、沈潜したかと思えば爆発するコーダ直前からの一気呵成の文字通り「解放」に一皮むけたブラームスの喜びが感じられるシーンだ。
ジュリーニ万歳!


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