「愛」という名の通奏低音

朝から打ち合わせで新宿のとあるホテルのロビーにいたのだが、昼食をはさんでかれこれ4時間ほどあぁだこぅだと考え、議論した。人間というもの、普段潜在的に意識したり、考えていることがアイデアとして浮かぶのだろうが、何となく閃いたことを口に出し、ちょこちょこと大枠を決め、お開きとなった。
こういう日記風のブログを毎日書いていて思うのだが、考えを文章にしたり、人に思っていることを整理して話していくと、自分自身の根底にある思想というか思考が顕わになってきて、とても面白いものだと感じる。

僕はここのところどの一点に足をつければいいのか常々思い巡らしているのだが、結論はやはり「愛」であると考えるようになった。「愛」などとはおよそ僕などには似ても似つかない単語で、どうもお尻がかゆくなるような違和感もあるといえばあるのだが、心底本音でそう思っているのだからこればかりはしょうがない。例えば、「古典音楽講座」でとりあげる作曲家にしても、日常的に聴いて楽しむ音楽にしても、または日々興味を持って読む本や観る映画ひとつとってみても、「愛」が通奏低音のように流れ支配しているものが圧倒的に好みであることはまず間違いない。おそらく人間ならば誰でもそうなんだろうけど・・・。

僕はブーニンの弾くバッハを聴いて、いつも人間の叡智を超えた宇宙万物に相通ずる普遍的な「愛」、つまり絶対的な「愛」を感じる。それは、バッハの演奏で有名なグレン・グールドの一聴冷ややかで機械的に思われる演奏(かといって「愛」がないわけではないのだが)とは明らかに異なり、全人類を包み込む「温かさ」に横溢した名演奏だと思うのである。

バッハ・リサイタルⅡ
スタニスラフ・ブーニン(ピアノ)

特に、フランス組曲第5番ト長調BWV816の演奏は完璧である。ブーニンは1985年のショパン・コンクールで優勝し一世を風靡して以来、どうもショパン弾きと思われているように思うのだが、彼の弾くショパンはいま一つ心に響いてこない。それより、バッハだったりモーツァルトに惹かれるのである。あくまで、それは僕自身の感性なのだが・・・。

満月の夜にブーニンの弾くバッハを聴いて心身に溜まった悪いものを捨て去り浄化をし、そして新月の夜にも心静かにBGMとしてバッハを聴いて天に願事をする。素晴らしきかな・・・。

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2 COMMENTS

アレグロ・コン・ブリオ~第5章 » Blog Archive » ミラノ・スカラ座のブーニン

[…] 決してブーニンの演奏に問題があるのではない。そもそも僕の今の心構えに問題があるのだ。楽曲毎の盛大な拍手喝采を聴くにつけ、その時その場でこの演奏に触れていたら猛烈に感動しただろうと感じられるゆえ。 ブーニンはどちらかというとバッハなどのポリフォニーに適応性があるように僕は思う(バッハ・リサイタルはⅠもⅡも最高の演奏!)。 その意味では彼のドビュッシーもあまりに軽い(実演に触れたらまた別だろうけど)。 […]

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岡本浩和の音楽日記「アレグロ・コン・ブリオ」

[…] J.S.バッハ:フランス組曲(全曲)BWV812~BWV817 グスタフ・レオンハルト(チェンバロ)(1975.2&12録音) 先妻マリア・バルバラを亡くした後遺症で、意気消沈した時期でありながらも、希望に満ちた音調がその内に聴いてとれるのは、やはり15歳年下のアンナ・マグダレーナの存在あってのことだろうか(何と半年後には再婚しているのだからその身の代わりの早さよ)。 僕は、ピアノ演奏ではグールドのそれよりもブーニンのそれを愛する。決して機械的でない人間っぽさと真摯な愛情が感じられるから。その意味では、チェンバロにおけるレオンハルトのこの演奏も同様。実際にバッハの演奏を聴いたわけではないので想像にすぎないが、本当にバッハ本人が弾いているような自然体の音楽がここにはある。 […]

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