モーツァルトが最晩年に書き上げた3つの交響曲はすべて性格が異なる。よくもまぁ短期間にあれだけの名作を生み出したものだと感心するが、やっぱり「上」とつながって書かされていたとしか思えない。光と翳のバランスが完璧で、いずれもが明朗な音調と悲哀の響きを混在させており、音楽のどの瞬間を捉えても非の打ちどころのないものだから。
特に、ハ長調の交響曲は極めて開放的で、安定感抜群。そういうことを言葉にする時点で陳腐になってしまうので、聴いたことがないという方には「説明不要、とにかく繰り返し聴いてくれ」と言いたくなるのだが、久しぶりにフィナーレのフーガを聴いて涙がこぼれてきた。
オットー・クレンペラーがフィルハーモニア管弦楽団とEMIに録音したもの。同じ指揮者のウィーン・フィルとの晩年の実況録音盤はあまりにテンポが遅すぎてモーツァルトにしては暗く愚鈍な印象が避けられず、僕は好きでない。しかし、1962年3月のスタジオ録音盤はテンポ感も絶妙で、何度聴いても心に直接響いてくる。第1楽章の雄渾で明快、エネルギッシュな音調、それに対して第2楽章の静かで虚ろな哀しみの表現。この対比がきれいな半月を愛でるようで限りなく美しいのだ。
モーツァルト:
・セレナーデト長調「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」K.525(1964.10&11録音)
・交響曲第39番変ホ長調K.543(1962.3録音)
・交響曲第41番ハ長調K.551「ジュピター」(1962.3録音)
オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団、ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
白眉はやっぱりフィナーレ。モーツァルトが好んで用いた冒頭のモチーフ「ドレファミ」、いわゆるジュピター音型を聴くだけで背筋がゾクゾクする。音楽は通常のソナタ形式により進行するが、展開部から再現部にかけてのつづれ織りのようなメロディの緻密な交錯と、コーダの圧倒的なフーガを聴き及ぶにつれ、僕たちはエクスタシーの先にある「悟り」の世界にまで足を踏み入れるかのような錯覚を起こす。いや、これは錯覚ではない、現実だ。これこそ神懸かり的。
自暴自棄にはならぬまでも、時にやるせない気持ちになることは誰でもあろう。
そういう時にモーツァルトは絶対的効果を発揮する。
実に不思議。
明るいものも暗いものも、軽いものも暗いものも、すべてがひとつに統合されゆくように「ゼロ」になる。
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