ベートーヴェン=リスト:「田園」交響曲

福田弥著「作曲家◎他人と作品シリーズ リスト」から抜粋。
愛する長女ブランディーヌが亡くなって約2ヶ月後の手紙。

ブランディーヌは私の心の中でダニエル(リストの長男で、1859年12月13日死去)のかたわらにいます。・・・(中略)・・・しかしこの世にいるかぎり、われわれは日々の仕事に立ち向かわねばなりません。私は創造的でいるつもりです。他人にはそれは取るに足らないことかもしれませんが、私にはどうしても必要なことなのです。・・・生きている愛しき人々を光で照らし、亡くなった愛しき人々を「精神的にも肉体的にも」安らかに眠れるようにしなくてはなりません。これこそ私の芸術が求めるものであり、目的なのです。(1862年11月19日付書簡)
P118-119

さらに、ローマ時代、剃髪式の約3週間後の手紙。

音楽は本質的に宗教的であり、「生まれながらのキリスト教徒」の魂のごときものであるといえるでしょう。言葉と音楽は結びついているのですから、音楽が神への賛美を歌い、有限と無限というふたつの世界の交わりに仕える以上に、音楽にふさわしい役割があるでしょうか。そうした特権は音楽のものです。なぜならば、音楽は双方の性質をあわせもっているからです。(1865年5月20日付書簡)
P131

書簡類というのはそれを認めた人のその時の想いがよくわかって真に興味深い。フランツ・リストは類稀な才能を持ち合わせつつも日常では単なる放蕩を繰り返した、無鉄砲で自己中心的、傲慢な人であったのだろうとその作品を聴いて随分長い間勝手に想像していた。でも、彼が過去の巨匠の作品(バッハやベートーヴェンや)に真摯に向き合い、リサイタルで繰り返し取り上げ、ともかく聴衆だけでなく森羅万象、身に見えぬものにも想いを寄せて音楽を創造していたことを知ってから僕は彼の創造物に対しての捉え方が変化した。

ベートーヴェン:交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」(リスト編曲)
シプリアン・カツァリス(ピアノ)

愛する2人の子どもたちが相次いで早世したことは何より大きい。ちなみに、1861年秋以降、リストはローマに居を移すが、この時期以降の作品は一層宗教的色彩が濃厚になる(ように僕は思う)。すでに1837年頃に編曲されていたベートーヴェンの交響曲集の第2稿が完成されたのもこの時期(1863~64年)。あくまで原曲に忠実に編まれたこれらの独奏ピアノ版は、当時気軽にオーケストラ演奏に触れ得なかった大衆に、ベートーヴェンの天才を知らしめる大きな役割を果たしただろう。中でも、「田園」交響曲(最近の僕は第6交響曲こそベートーヴェンの最高傑作であると確信している)に見る自然(宇宙)讃歌ともいうべき思想はリストのピアノ版にも十分に受け継がれている。そもそも楽想が「普通」でないのだ。特に、終楽章「牧歌、嵐の後の喜ばしい感謝の気持ち」はまさに信仰と祈りの極致(ここには神が宿ります。はい)。

思わず、続けてヘルベルト・ケーゲルの最後の来日公演の「田園」交響曲終楽章を聴いた。コーダの突如ブレーキがかかる、あの暗鬱とした祈りのシーンは無の世界の表象。

 


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