三島由紀夫が新派大悲劇調のイタリア歌劇好きだったというのは黛敏郎による言だが、なるほどそういう嗜好・思想は彼の作品にも明らかに見出せる。
三島作品に通底する人間心理の冬の側面、それは、読み耽りつつ具に想像を膨らませてゆくと真に醜い事実なのだが、何せ彼の美しい文体と常人には推し量ることのできない多様な語彙を駆使して煙に巻かれるものだから、僕たちはついその中に幻を見、陶酔してしまう。なるほど、醜い側面を美しい描写によって魅了する方法はイタリア歌劇の人心をつかむ術とほとんど同じものだと、マリア・カラスの歌うルチアを聴いて思い至った。
登場人物が真っ直ぐで裏がなく、しかも人間模様に信じられないような駆け引きがないとそれこそドラマにならないのだろう。
松枝清顕の、綾倉聡子に対する苦々しいゲーム、あるいは聡子の清顕に対するそれは読んでいて苦痛を感じるほどのものだが、しかし、聡子の宮家への嫁入りが決定した後の清顕の狼狽と、蓼科を介しての切羽詰っての逢瀬の場面は、まさにイタリア歌劇のクライマックスのシーンそのものであり、音楽なくして読ませる究極の筆致のオペラの如しだと僕は思った。
清顕はどうやって女の帯を解くものか知らなかった。頑ななお太鼓が指に逆らった。そこをやみくもに解こうとすると、聡子の手がうしろへ向ってきて、清顕の手の動きに強く抗しようとしながら微妙に助けた。二人の指は帯のまわりで煩瑣にからみ合い、やがて帯止めが解かれると、帯は低い鳴音を走らせて急激に前へ弾けた。そのとき帯は、むしろ自分の力で動きだしたかのようだった。それは複雑な、収拾しようのない暴動の発端であり、着物のすべてが叛乱を起こしたのも同然で、清顕が聡子の胸もとを寛げようとあせるあいだ、ほうぼうで幾多の紐がきつくなったりゆるくなったりしていた。彼はあの小さく護られていた胸もとの白の逆山形が、今、目の前いっぱいの匂いやかな白をひろげるのを見た。
聡子は一言も、言葉に出して、いけないとは言わなかった。そこで無言の拒絶と、無言の誘導とが、見分けのつかないものになった。彼女は無限に誘い入れ、無限に拒んでいた。ただ、この神聖、この不可能と戦っている力が、自分一人の力だけではないと、清顕に感じさせる何かがあった。
~三島由紀夫「春の雪(豊饒の海・第1巻)」(新潮文庫)P232-233
言葉だけで恥ずかしくなるほど具体的に想像させる三島の能力は言語を絶する。
しかし、このあまりに言を尽くした描写こそが逆に軽薄さを思わせる(あるいはしらけを催させる)彼の弱点かもしれない。
素晴らしい舞台、美しい音楽、そして見事な演奏(歌唱)であるにもかかわらず、同じような印象を僕はこれまでイタリア歌劇に感じていた。しかし、カラスのルチアを聴くに及び、その考えは少しずつ変化していった。それこそ命を賭けたギリギリの絶唱だと言えまいか。
・ドニゼッティ:歌劇「ランメルモールのルチア」
マリア・カラス(ルチア、ソプラノ)
ジュゼッペ・ディ・ステファノ(エドガルド、テノール)
ティート・ゴッビ(エンリーコ、バリトン)
ラファエル・アリエ(ライモンド、バス)
ヴァリアーノ・ナターリ(アルトゥーロ、テノール)
アンナ・マリア・カナーリ(アリーサ、メゾ・ソプラノ)
ジーノ・サッリ(ノルマンノ、テノール)
トゥリオ・セラフィン指揮フィオレンティーノ・マッジオ・ムジカーレ管弦楽団&合唱団(1953.1.29-30 &2.1-6録音)
録音がカラスの声を際立たせているのだろうか、どの重唱を聴いても彼女の声の図太さというのか、声の通り具合に驚嘆の念を禁じ得ない。60余年という年月を経てもマリア・カラスの歌は不滅。いや、もはや彼女のようなソプラノは今後も出てこないだろう。
例えば、様々な感情が錯綜する第2幕最後の六重唱「この時に誰が怒りを抑えるのか~お前は神と愛とを裏切った」でのドニゼッティの音楽の力強さ、また何よりルチアを演じるカラスの壮絶な歌。
さらには、有名な第3幕「狂乱の場」におけるカラスの歌の切なさ、迫真。
エドガルド!私は貴方のもとに戻ったの、
エドガルド!ああ!私のエドガルド!
そう、私は貴方のものよ!
私は貴方の敵から逃げてきたの・・・
凍りつくような寒さが私の中で這っている!・・・
全身が震えるの!・・・
足がよろめくの!・・・
泉のそばに、少しは私と座ってください・・・
何てこと!・・・恐ろしい亡霊が
浮かんでくる、私たちを別れさせるんだわ!
ああ!何てこと!
エドガルド!・・・エドガルド!ああ!
亡霊が、亡霊が、別れさせるんだわ!
~オペラ対訳プロジェクト
血に染まった夜着をまとう狂ったルチアの本心には、人間の深層の、叶えられないことへの怨念が感じ取れる。
ちなみに、三島は聡子本人にではなく、切ない恋の心境を蓼科に語らせるのだから、これまたずるい、というか巧妙だ。
若様のあのお手紙をお読み遊ばしたお姫様が、どんなにお悩み遊ばしたか。しかも若様の前では、露ほどもお顔にお出しにならぬように、どんなに健気にお力め遊ばしたか。私の入知恵で、新年の御親戚会で、思い切って殿様に直々お尋ねの上、どんなに御安心遊ばしたか。それからというものは、ただ昼も夜も若様のことばかりお考えになり、とうとう思い切って、雪の朝、女子のほうからお誘い申上げるような面映ゆいことまで遊ばしながら、しばらくは世にもお仕合せそうに、夢の間にも若様の御名をお呼び遊ばす。それが、侯爵様のお計らいで、宮家の御縁談が持ち込まれたとわかったとき、ただ若様の御決断をお心あてに遊ばして、そればかりにすべてを賭けておいでになったのに、若様は黙ってお見すごし遊ばした。それからのお姫様のお悩み、お苦しみは、とても口にも言葉にも尽くせるものではございません。
~同上書P225-226
狂おしいばかりの(作為のある?)関係のすれ違い。悲しい。
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>登場人物が真っ直ぐで裏がなく、しかも人間模様に信じられないような駆け引きがないとそれこそドラマにならないのだろう。
どんなに立派な言葉にも「裏」があります。
1.仕事は自ら創るべきで、与えられるべきではない。
2.仕事とは、先手先手と働き掛け、受身でやるべきではない。
3.大きい仕事と取り組め。小さい仕事は己を小さくする。
4.難しい仕事をねらえ。それを成し遂げるところに進歩がある。
5.取り組んだら放すな。殺されても放すな。
6.周囲を引きずり廻せ。引きずるのと引きずられるのとでは、長い間に天地の差が出来る。
7.計画を持て。長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と正しい努力と希望が生まれる。
8.自信を持て。自信がないから君の仕事は迫力も粘りも厚みすらもない。
9.頭は常に全回転。八方に気を配って一分の隙があってはならぬ。サービスとはそのようなものだ。
10.摩擦を恐れるな。摩擦は進歩の母、積極の肥料だ。でないと、きみは卑屈未練になる。
私たちは、誰もが仮面をかぶって演技しなければ、生きていけないのかもしれませんね。
>雅之様
間違いなく「裏」はありますね。