完璧でないのが人間。
出来不出来のあるのが人間である。
人は魂の成長のために生まれ出ずるのだという。
20年前、エリック・ハイドシェックが「ハンマークラヴィーア・ソナタ」終楽章の途中で指がもつれ、演奏不能になり、一旦袖に下がり、数分の休憩後登場、あらためて弾き直したときの心もとなさに、僕は(なぜか冷や汗が出て)その場から逃げたくなった。居た堪れなかったのである。また、5年前、ステージ上での彼の挙動不審の有様、そして不出来としか言いようのない演奏に、この人もついに限界かと、僕はショックを隠すことができなかった。
幾度も触れたハイドシェックの実演だけれど、そういう状態でも、(開き直りではないだろうが)これが人間というものなんだと言わんばかりに笑顔を絶やさず、サービス精神に溢れ、何曲ものアンコールを聴衆に披露してくれたその姿が僕は忘れられない。
「不完全」の完全。時に想像を絶する神がかりの演奏に出逢えたことがかけがえのない宝。
歌劇「レオノーレ」作曲の頃、ベートーヴェンは、並行して「エロイカ」交響曲や「三重協奏曲」、あるいは「ワルトシュタイン・ソナタ」、「熱情ソナタ」を書いていたというのだから驚きだ。飛ぶ鳥を落とす勢いの、「傑作の森」入口。彼が知ってか知らずか、扉を開けた瞬間に創造の火種はあっという間に燃え盛り、神々との対話の下、時に聴衆の理解の範囲を超えた作品が創出された。中でも、幾度も改訂を重ねざるを得なかった「レオノーレ」、すなわち「フィデリオ」の不遇。おそらく「レオノーレ」のまま一旦封印し、時間を措き、後世を待った方が良かったのではないのかと思うくらい。
当時、ヨゼフィーネ・ダイム伯爵夫人に宛てられた手紙がある。
わたしはあなたの心を得たのです。おお、わたしがそれにどのような価値をおくべきなのか、自分でも良く判っています。短期間に、わたしはあなたにもわたしにももっと相応しい人間になってあなたの前に立つことを。—おお、あなたはそれにさらにある価値を加えようと思われればできることではないでしょうか。それは、あなたの愛によって、わたしの幸福が揺るぎないものになり—大きくすることを—わたしは言っているのです。—おお、愛するJ、わたしをあなたに牽きつけているのは、性ではありません。違います。あなたが、あなた全体の我(自我)が、あなたの総ての個性を含めて—それがわたしの尊敬をかち得ているのです。—わたしの感情—わたしの総ての感受性があなたに縛りつけられているのです。
(1805年初めまたは春、ヨゼフィーネ・ダイム伯爵夫人宛)
~小松雄一郎編訳「新編ベートーヴェンの手紙(下)」(岩波文庫)P138-139
その文面は明らかに彼女への告白であるのだが、ヨゼフィーネのことをどういうわけかイニシャルで呼び掛けており、この”J”を(深読みして)”Jesus”、すなわち「神」と読み替えて解釈してみると、当時の彼の(無意識下の)「悟りへの道」が目に見えるようで面白い(すべては僕の妄想だけれど)。
エリック・ハイドシェックの縦横無尽。
かつて鬼神が乗り移ると評されたピアニストの、青年期のベートーヴェン演奏は、優しさと愛と、また厳しさと魔物が宿る名演奏。
ベートーヴェン:
・ピアノ・ソナタ第19番ト短調作品49-1
・ピアノ・ソナタ第21番ハ長調作品53「ワルトシュタイン」
・ピアノ・ソナタ第23番ヘ短調作品57「熱情」
・ピアノ・ソナタ第25番ト長調作品79
・ピアノ・ソナタ第26番変ホ長調作品81a「告別」
エリック・ハイドシェック(ピアノ)(1967-73録音)
可憐な第19番ト短調は、ハイドシェックの手にかかるとまるでモーツァルトそのもの。神童と楽聖が手を取り合い、物憂い佇まいの中、愉悦の踊りを繰り返す。美しい。また、「ワルトシュタイン・ソナタ」の、特に第2楽章モルト・アダージョからアタッカで終楽章ロンドになだれ込む際の閃きは、他の追随を許さない光明に照らされる瞬間。まさにデトックスと解放。涙が出るほど美しい。そして、「熱情ソナタ」は、怒涛の第1楽章アレグロ・アッサイの凄演がすべて。恐るべき「運命」動機!!
時が下って、「悟り」のど真ん中に位置するベートーヴェンの筆致は、いよいよ神の境地に至る(シュナーベルの弾く「告別ソナタ」を聴くが良い)。ここでのハイドシェックの、フレーズにためを入れ、一気に解放する様が素敵。何より終楽章「再会」のあまりの喜び!!
6月2日―すべてのピアノ曲とおなじく、フィナーレはますます単純に。—なぜわたしのピアノ曲がいつも自分に最も悪い印象をあたえるのか、下手に弾かれた時はとくにそうなのだが、これは神が知りたもう。
(1804年、歌劇「レオノーレ」スケッチ帳、第2幕フィナーレのところに書き込まれた言葉)
~小松雄一郎訳編「ベートーヴェン 音楽ノート」(岩波文庫)P8-9
他愛もない言葉の中に神を見る。
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