ブリュンヒルデの目覚め。
楽劇「ジークフリート」第3幕の感動的な山場。
ブリュンヒルデ
こんにちは、太陽よ!
こんにちは、光よ!
こんにちは、輝く昼間よ!
私は長いこと眠っていた。
ようやく目覚めたのね。
私を目覚めさせた英雄は誰かしら?
ジークフリート(彼女の眼差しと声に心を打たれ、厳粛な気持ちになり、金縛りにあったように立ち尽くす)
岩山の周りで燃えていた炎を
くぐり抜けてきました。
僕があなたの硬い兜を切り破りました。
あなたを目覚めさせた僕はジークフリートという名です。
~井形ちづる訳「ヴァーグナー オペラ・楽劇全作品対訳集2―《妖精》から《パルジファル》まで―」(水曜社)P162
一方、ハーゲンの槍によって急所を射抜かれたジークフリートの最期。
ジークフリート(座った姿勢で、2人の家臣に支えられ、目を輝かしく見開く)
ブリュンヒルデ!聖なる花嫁よ!
目を覚ますのだ!目を開けよ!
誰がお前を再び眠りに閉じ込めたのか?
誰がお前を眠りで縛り不安にさせたのか?
お前を目覚めさせに来たぞ、接吻して目覚めさせ、
そして花嫁の甲冑を解くと・・・
ブリュンヒルデの喜びが微笑む!
ああ!この目は今や永遠に開いている!
ああ、この喜ばしい息づかい!
何と甘い死!何と幸せな衝撃!
ブリュンヒルデが私に挨拶をする!
~同上書P219
死をもって夜の帳が降りる。楽劇「神々の黄昏」第3幕第2場のクライマックス。
ワーグナーの天才は、これらのシーンに同じ音楽を使った。
つまり、覚醒と死とは同じ次元の事象だということを彼は示したのである。
ジークフリートは、それを「甘い死」だと表現する。
生と死の境界は本来ないということだ。
強いていうなら、僕たちの煩悩が輪廻の輪から抜け出すことを忌避していたのだといえまいか。
楽劇「ジークフリート」を聴くなら今僕はショルティ盤を第一に推す。
室内楽的な響きの音楽に、まるで映画でも見るかのような色彩感と人工性が逆にこの楽劇の表現に華を添える。やはり第3幕が圧倒的に素晴らしい。
ジークフリートとの邂逅と愛にブリュンヒルデは応える。
私は不死身でした!これからも不死身でしょう、
不死身のままあなたを憧れ、甘い歓びに浸り、
不死身のままあなたの幸福を願っています!
おおジークフリート!素晴らしい人よ!世界の宝よ!
大地の生命よ!晴れやかな英雄よ!
離れて、ああ離れて!私から離れてください!
そんな近くに来ないで!
壊してしまうような力で
私を征服しないでください!
あなたにとって大切な私を打ち砕かないで!
~同上書P165
ブリュンヒルデの、いわばジークフリートへの愛の告白。
「ジークフリート牧歌」の元となる音楽の途方もない優しさは、ショルティ盤の真骨頂。
「コジマの日記」をひもとく。
子供たちよ、この日のことは、わたしが感じたことも、わたしの気分も、何ひとつ言葉にできません。事実だけを淡々と書き綴ることにしましょう。目を覚ましたわたしの耳に飛び込んできた響き。どんどん膨れ上がってゆくその響きは、もはや夢の中のこととは思えません。鳴っていたのは音楽、それもなんという音楽でしょう。それが鳴りやむと、リヒャルトが5人の子供たちを連れてわたしの部屋へ入ってきて、「誕生祝いの交響楽」のスコアを手渡してくれたのです。わたしは涙にかき暮れ、家じゅうが涙につつまれました。リヒャルトは階段にオーケストラを配置して、わたしたちのトリープシェンを永遠にきよめたのです。曲の名は《トリープシェン牧歌》(後の《ジークフリート牧歌》)。
(1870年12月25日、日曜日)
~三光長治・池上純一・池上弘子訳「コジマの日記2」(東海大学出版会)P274-275
事実は小説よりも奇なり。
リヒャルト・ワーグナーのヒューマニスティックな側面を垣間見る。
あえて目覚まし時計のように奏でられた音楽は、文字通りブリュンヒルデの覚醒の音楽にもつながる点が奇蹟のよう。あまりに美しい。