時間と空間は二度と同じものを創出し得ない。
人生がルーティンであったとしても、まったく同じ日は物理的に存在しない。
思考や感情は思いのまま現実化するというが、特に録音の場合、プロデューサーやエンジニアの意思が音楽に与える影響は極めて大きい。実演と音盤の印象が異なるのはマイクのせいだけでなく、そもそも制作者の何某かの意図が反映されることに因があろう。
夢の中にあるかのような錯覚を喚起する録音。
好き嫌い、是非はともかく、その不思議な音響効果は、僕たちにただちに覚醒をもたらす。
どういうわけか、この、すり硝子の向こうで鳴り渡るような音には、間違いなく技術者の恣意があるのだろうが、フルトヴェングラーが晩年にEMIに録音したベートーヴェン、中でも1952年の「英雄」の、何とも抜け切らない、沈潜する、軟な音の感覚に近いものがある。しかし、それでいて、いずれも感動的なのだ。不思議だ。
ハインツ・レーグナーがベルリン放送管弦楽団を指揮して録音したワーグナー作品集の崇高な美しさ。録音場所となったベルリン・キリスト教会の場の影響は当然あろう、どの音楽もワーグナーらしからぬいぶし銀のような生々しい「人工性」が特長的。
ワーグナー:前奏曲集
・楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲
・楽劇「ラインの黄金」前奏曲
・楽劇「トリスタンとイゾルデ」第1幕への前奏曲
リヒャルト・シュトラウス:
・楽劇「ばらの騎士」第1幕&第2幕のワルツ
・楽劇「ばらの騎士」第3幕のワルツ
ハインツ・レーグナー指揮ベルリン放送管弦楽団(1977.2.1, 3, 7-8録音)
剛毅で輝かしい「マイスタージンガー」前奏曲が、見事に生まれ変わる。人間の生き様の素晴らしさを肯定的に表現する音楽が、何と中庸に響くことだろう。また、「ラインの黄金」の、宇宙の生成を表わすあの数奇な前奏曲が、何と意味深く奏でられることだろう。この数分間には、地球の何十億年という歴史のすべてが刻み込まれるようだ。
エドワード・サイードは、ダニエル・バレンボイムとの対話の中でかく語る。
ワーグナーについて、僕がいつも並みのものではないと思うのは(同時代に活躍していたバルザックやディケンズなどの19世紀後半の大小説についても同じことが言えるけれど)、もはや世界を信頼することができず、自分でそれをつくり出さねばならないという感覚があるところだ。僕にとって、ワーグナーにおけるもっとも並はずれた瞬間は「ラインの黄金」の出だしだ。ワーグナーはそこで、ひきのばされた変ホ音を延々と連続させることにより、世界がいま生まれ出ようとしており、自分がそれに命を与えているのだという錯覚をつくろうとしている。
~アラ・グゼリミアン編/中野真紀子訳「バレンボイム/サイード『音楽と社会』」(みすず書房)P51-52
ここにも「擬き」があることが実に興味深い。
「トリスタン」前奏曲も、でき得る限り官能を削ぎ落した客観的なものでありながら、熟練の美しさを持つレーグナーの奇蹟。そして、シュトラウスの「ばらの騎士」からのワルツに、まさに時空を超えた「永遠」を思うのである。いずれも絶品。
ワーグナー:
・交響曲ハ長調
・ジークフリート牧歌
ハインツ・レーグナー指揮ベルリン放送管弦楽団(1978.10.31-11.4録音)
さらに、文字通り「言語を絶する」ジークフリート牧歌。
本来、関係に言葉は不要。ただそこに共にあるだけで、僕たちはわかり合え、ひとつになれる。そのことをワーグナーは妻コジマへの誕生日の贈りものとして音化した。
子供たちよ、この日のことは、わたしが感じたことも、わたしの気分も、何ひとつ言葉にできません。事実だけを淡々と書き綴ることにしましょう。目を覚ましたわたしの耳に飛び込んできた響き。どんどん膨れ上がってゆくその響きは、もはや夢の中のこととは思えません。鳴っていたのは音楽、それもなんという音楽でしょう。それが鳴りやむと、リヒャルトが5人の子供たちを連れてわたしの部屋へ入ってきて、「誕生祝いの交響楽」のスコアを手渡してくれたのです。
1870年12月25日、日曜日
~三光長治・池上純一・池上弘子訳「コジマの日記2」(東海大学出版会)P274-275
コジマのこの言葉以上に、この音楽の素晴らしさを伝えるものはない。
ところで、若書きの交響曲の、これほどまでに明快で有機的な連関を示す他の演奏を僕は知らない。いわゆる「ワーグナー的毒性」は未だ確認できず、ベートーヴェンの第7交響曲に範を得た、ただひたすらに音楽をすることの喜びに溢れる佳品。
この頃のレーグナーは、何と雄大で深遠な音楽を創造していたことだろう。
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