何にせよ器が大事。
器とは、すなわち環境のこと。どこで生きているのか、またどこに生きているのか。
音楽の場合、ホールの音響の良し悪しは演奏そのものに大変な影響を与える。日比谷公会堂のような、かつての想い出までもが刷り込まれた会場は別格として、やはり音楽を十分楽しむには、それなりの設備が必要になるということだ。
デジュー・ラーンキの協奏曲の夕べを聴いた。
予想通りデッドな会場での協奏曲は、音の分離が極めて明瞭で、作品の細部の隅々まで見通せたことは良かったが、どうにもオーケストラとピアノの音が融合せず、とてももどかしさを感じた。
ラーンキの正統法のピアノは一切のぶれがない。モーツァルトもベートーヴェンも、虚飾なく、ただひたすら音符を正しく音化することに命を懸けたもの。心なしか本人も今ひとつ乗らなかったのか、あるいは伸びのない音楽に憤りを感じていたのか、時間の経過とともに演奏は豪快に、というより荒々しくなり、轟音を突き立てて披露するシーンも見受けられた。
デジュー・ラーンキ ピアノ協奏曲の夕べ
2017年11月27日(月)19時開演
成城学園内澤柳記念講堂
デジュー・ラーンキ(ピアノ)
村上寿昭指揮テアトロ・ジーリオ・ショウワ・オーケストラ
・モーツァルト:歌劇「フィガロの結婚」K492~序曲
・モーツァルト:ピアノ協奏曲第23番イ長調K.488
休憩
・ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番変ホ長調作品73「皇帝」
小ぶりの、室内オーケストラの伴奏とのバランスは取れていたと思う。
モーツァルトのイ長調協奏曲は、全盛期の愉悦に満ちる作品なのだが、どうにも余裕が感じられず、喜びよりも堅苦しさの目立つ音楽に終始した。
そして、ベートーヴェンの「皇帝」は、ピアニストが懸命に楽器を鳴らそうと躍起になるものの、今ひとつ鳴り切らない印象を僕は受けた(それはたぶん会場のせいもあるだろう)。それでも第2楽章アダージョ・ウン・ポコ・モッソは十分に美しかったけれど。
一番の問題は、指揮者とピアニストの呼吸が合っていなかった点。
それは、演奏そのものというより、終演後の、互いに敬意を表して譲り合うそぶりを見せながらいちいちズレがあったところに顕著。たぶんコミュニケーション不足なのだと思う(ちなみに、ここでいうコミュニケーションとは、互いの常識や背景までをも分かち合う深い交流のことをいう)。
単に技術を磨けば良いというのではない。何事もまずは心を通わし合わねば・・・。
せめてアンコールの1曲くらいは演ってほしかった。
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