どういうわけか今朝からブルックナーが・・・

ここのところ寒稽古で毎日午前4時半起床だが、とにかく寒くて布団から出るのにも一苦労。しかしながら、道場に着いて身体を動かしているとあっという間に温まるのだから結局運動をして代謝を上げるのが一番だということがよくわかる。それに、窓から差し込む朝焼けが格別に眩しくきれいで、輝く太陽の光を浴びて心も十分に満たされる。あれをひとりでも多くの人に見せてあげたいくらい(笑)。

どういうわけか今朝からブルックナーが、しかも第9交響曲の第1楽章の主要主題やコーダあたりが頭の中で繰り返し響く。頭がおかしくなったんじゃなかろうかというくらい、幻聴のように・・・(笑)。

まぁ良い。ということで、メールソフトの復旧作業に午前中を費やし、午後仕事をしながらずっとブルックナーの第9シンフォニーを聴いた。インバルが昔フランクフルト放送響と録音したもので、いつぞや廉価盤で再発された時にはニコラ・サマレ&ジュゼッペ・マッツカによる第4楽章の補完版が付録としてカップリングされ、言ってみれば「完全版」として売られていたものを繰り返し。特にアダージョからフィナーレへと引き継がれる流れ、それまでには経験したことのなかった「流れ」が何とも乙で、しかもフィナーレそのものがブルックナーが本当に仕上げた正真正銘の真作が発見されたのだと言っても問題ないくらい上等な出来で、とにかく久しぶりに興奮した。

平野昭氏の解説によると、サマレ=マッツカ版のフィナーレ復元はブルックナーが書こうとしていたフィナーレの音楽を知るという目的に沿って、最大限ブルックナーの精神とその作曲語法に基づこうというものであったようで、700小節超に及ぶ楽章は新鮮な楽音で満たされており、ブルックナー愛好者の度肝を抜く(じっくり聴くと少々軽さ、物足りなさを感じなくもないが、それは贅沢というものだろう)。

ブルックナー:
・交響曲第9番ニ短調(原典版)
・フィナーレ(第4楽章のスケッチからの補完/ニコラ・サマレ&ジュゼッペ・マッツカによる)
エリアフ・インバル指揮フランクフルト放送交響楽団

現在、インバルは東京都響のプリンシパル・コンダクターとして活躍、名演を繰り広げているが、ここはぜひとも第9交響曲の完全版を採り上げてほしいところ。ショスタコーヴィチやマーラーなどは実演に触れないとその真髄が決してわかり得ないといわれるが、それはブルックナーについてもいえること。この神に捧げられた未完のシンフォニーはこれまで何度も生を聴いているが、復元されたフィナーレは未聴。この時の録音から20数年を経た今ならインバルはなお一層優れた解釈の演奏を聴かせてくれるだろうと、想像するだけで居ても立ってもいられなくなる。

ところで、パーヴォ・ベルグルンド氏が亡くなったのだと。またひとり優れた指揮者がいなくなったのだと思うと寂しい限り。ここはやっぱり追悼の意を込めてシベリウスでも聴いてみようか・・・。

※明日は今年最初のワークショップZERO。さて、いかに?


3 COMMENTS

雅之

こんばんは。

スーク、ベルグルンド・・・、親父と同い年の1929年生まれが次々に亡くなります。

ハイティンク、プレヴィン、アーノンクールには長生きしていただきたいです。

ブルックナー:交響曲第9番 アーノンクール&VPO
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%83%BC-%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC9%E7%95%AA-%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%AB-%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%B9/dp/B0000AZSR5/ref=sr_1_2?s=music&ie=UTF8&qid=1327670622&sr=1-2

アーノンクールの、第4楽章について形容した言葉が素晴らしいです。
「まるで月から降って来た石のよう」
まさに!!

第3楽章までも名演です。

返信する
岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。

>アーノンクールの、第4楽章について形容した言葉が素晴らしいです。
「まるで月から降って来た石のよう」

なるほど、言い得て妙ですね。
アーノンクール盤は未聴なので聴いてみたいです。
ありがとうございます。

返信する
アレグロ・コン・ブリオ~第4章 » Blog Archive » ラトルのブルックナー9番を聴いた。痺れた。

[…] 問題のブルックナーの9番。この未完成の作品はもう僕らの耳にはアダージョで終了することが常識になっていて、ブルックナー先生が遺言に残した「テ・デウム」を最終章につけることはもちろんのこと、僕はこれまで研究者が競い合って再構築した補筆完成版フィナーレとともに演奏することに少々懐疑的だった(それは、例のインバルがフランクフルト放送響と録音した音盤を聴いた上でも)。おそらく実演で聴いたらまた違った印象を持つのだろうが、やっぱりあれはアダージョで終わらせておいた方がより神秘的で、より伝説的で、と勝手に(長い習慣も後押しして)決めつけていた。 […]

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