内田光子 ベートーヴェン ディアベリの主題による33の変奏曲(2021.10録音) 

8年前、サントリーホールで内田光子のリサイタルを聴いた
彼女の実演はそれまで幾度か聴いていて、いつも感動していた。特にその日のメインは「ディアベリ変奏曲」だということで僕は一層愉しみに出かけた。果たして素晴らしい演奏だったのだが、当時の僕のこの作品への理解度は今一つだった。もしその頃、「ディアベリ変奏曲」への愛着が今くらいあったならもっと楽しめたのではなかったか。そんな思いを抱きながら、僕は今、内田の録音を聴いている。

そういえば、12年位前になるのだろうか。オペラシティコンサートホールで聴いたピーター・ゼルキンのリサイタルのメインも「ディアベリ変奏曲」だった。そのときはこの作品は僕にとってより遠い、ほとんど未知と言っても言い過ぎでない、最晩年のベートーヴェンが創造した難解な大伽藍だった。そういう理由もあり、今となってはアンコールで弾かれたバッハのゴルトベルク変奏曲のアリアの演奏の印象ばかりが頭にこびりついていて、残念ながら演奏の一切の記憶がない。

ベートーヴェンの亡くなった年齢を超え、僕もようやく楽聖の当時の心象風景の片鱗が真に理解できるようになりつつある。アントン・ディアベリの凡庸な(?)ワルツ主題を軸にした畢生の大作は同時期の「第九」や「ミサ・ソレムニス」をある意味凌ぐ。この2つの大曲が聖俗両極を顕すマクロ・コスモス的傑作だとするなら、「ディアベリ変奏曲」はミクロ・コスモス的逸品だ。内側に向いた慈しみのパッションは、心の眼で聴き、心の耳で観たときに初めてわかる。性格変奏それぞれの喜怒哀楽、感情を超えた、理性に紐づく音楽は、まさに宇宙と直結した命の音楽だろうと僕には思えてならない。

・ベートーヴェン:アントン・ディアベリのワルツによる33の変奏曲ハ長調作品120
内田光子(ピアノ)(2021.10録音)

一気呵成の魔法は、最晩年のベートーヴェンが到達した「皆大歓喜」の世界を内観した音楽だ。73歳を迎えた内田が、満を持して録音した「ディアベリ変奏曲」の桁違いの美しさ、そして品格。言葉をどれほど並べてもその素晴らしさを表現することは難しい。

世間というものは、諂(へつら)われることを好む王様みたいなもので、諂(へつら)われれば機嫌をよくしている。しかし、真の芸術というものは頑固なもので、諂(へつら)われて自らを満足させていられるようなものではない。名声高き芸術家は、たとえそれがまだ日のさしこまない胎内から芽生えたばかりにすぎぬものであっても、彼の最初の作品が最良のものであるとの考えをつねに固く信じているものである。
(1820年2月の会話帖)
小松雄一郎訳編「ベートーヴェン 音楽ノート」(岩波文庫)P89

おそらく当時の大衆にとってベートーヴェンの新作はいずれもちんぷんかんぷんだったかもしれない。しかし、ベートーヴェンは大衆に媚び諂うことはなかった。あくまで自身の内的動機を重視し、大宇宙と小宇宙(いのち)をつなぎとめることを目的に音楽作品の創造を続けたのだと僕は思う。
内田光子の演奏にはベートーヴェンのそういう信念、魂が宿る。峻厳な音楽が、何とポピュラリティを獲得し、語られていることか。


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