
「進歩、発展・向上」こそ止まるところを知らぬクラウディオ・アバドの座右の銘。
2014年1月20日のクラウディオ・アバドの死は、力強く、また「偉大」と形容できる数少ない指揮者の一人の死を象徴するものでした。アバド自身は、自らに「偉大」という言葉を使うことを頑なに拒んでいましたが、実際この言葉は真実です。
「偉大なのは作曲家とその作品だけだ」と、彼はかつて至言を尽くしていました。「我々指揮者の使命は、その偉大さを理解し、それを音化するだけだ」と。彼の死によって、音楽界は現代最高の指揮者の一人を失っただけでなく、深いヒューマニズム精神に溢れた芸術家をも失ったのです。彼の誠実さ、抑えきれない人類愛、そして音楽が私たちの人生をより良く変える力を持っているという揺るぎない信念は、彼と接することのできたすべての人々の意識を変革し、変容させました。
アバドは、まったく自明で、まったく汚れのない芸術的誠実さを放っていました。彼のコンサートはしばしば、皆に音楽がひとりでに溢れ出しているかのような錯覚に陥らせました。それはまるで空気がひとりでに振動し始めたかのようでした。
(ユリア・スピノーラ)
特に晩年になってアバドの「偉大さ」は顕著になったが、実際のところもっと以前から彼は偉大だったといえまいか。何よりその「変革精神」こそが彼のすべてであったように思われる。
アバドの、周囲を進歩、発展、向上させようとする試みは極めて具体的で現実的でした。1971年から86年にかけてスカラ座の音楽監督を務めたときも、1975年から87年にかけてロンドン交響楽団の首席客演指揮者(後に音楽監督)を務めたときも、1986年から91年にかけてウィーン国立歌劇場の監督を務めたときも、あるいはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を務めたときも、彼は常にその立場を利用して何か新しいことに挑戦し、レパートリーの拡大、音楽祭の創設など、いわゆる構造改革を実践しました。
(ユリア・スピノーラ)
それこそクラウディオ・アバドの真骨頂だ。
スカラ座時代に録音したバッハのブランデンブルク協奏曲集が躍動的かつ音楽的で素晴らしい(晩年のモーツァルト・オーケストラとの神々しいまでの再録音とはまた違って、華麗で「歌」があり、音楽が常に前のめりなのである)。

すべてが喜びに溢れるのだから、アバドの楽天的な音楽性がいかにもイタリア的な、陽気なバッハを創出する原動力となっていて面白い(そういうところも30年後の新録音とは異なる)。
しかしながら、例えば第4番ト長調BWV1049の中間楽章(アンダンテ)に垣間見える寂寥感は、これぞバッハの真髄を示す名演奏だと思える。
あるいは、第6番変ロ長調BWV1051全編に醸される優雅で柔和な響きは、バッハの女性性が強調された演奏で、実に美しい。
なるほど、陰陽が統合されたスタイルこそがアバドの方法だったのだと腑に落ちた。