アンドレイ・タルコフスキー監督「アンドレイ・ルブリョフ」を観て思ふ

andrei_rublyovエピローグに映し出されるイコンの何という鮮烈な清らかさ。
「人々を喜ばせることができるなら、それでいいではないか」
父から何も引き継いでもらえなかったと嘆くボリスに寄り添い、最後にアンドレイは悟る。
永い自己との闘いの末、ようやくアンドレイが出した答が「もういいのだ」という自らをも許す言葉。

映画のごく初めの時点で、フェアフォン・グレクとキリルの会話の中でユステネフスキー師の次の一節が挙げられる。

物の本質を極めるには正しく言葉にするがいい。

しかし、実際、真理を正しく言葉にするのは難しい。それゆえ正当防衛とはいえ人を殺したアンドレイは無言の行に入るのだ。すべてを言葉にしないことこそが真の懺悔なのだといわんばかりに。

キリルは付け加えていう。

誰もがアンドレイを褒めるが、色具合はやさしく繊細で巧みだ。だが欠けているものがある。恐れの念だ。心の底からの信仰がないのだ。

不安こそが信仰の源泉だとキリルは考えているようだ。しかし、アンドレイのイコンを観るにつけ信仰がないとは到底思えない。結局「恐れ」はキリルの中にあるものだった。そのことは最後にキリル自身がアンドレイに嫉妬心をもっていたことを謝罪するシーンでようやく理解できる。

アンドレイ・コンチャロフスキー演出の歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」に触発され、アンドレイ・タルコフスキーと共同で脚本を書いた傑作「アンドレイ・ルブリョフ」を久しぶりに観た。
映画のテーマは深い。主題の原点はやはり人間存在の原罪について。
特に、タタールの襲撃が描かれる第2部冒頭は、教会の聖なるイコンと床に溢れる夥しい数の屍との壮絶な対比により、人間の残酷さと、そのことを自ら償おうとする良心の混在を見事に表現する。人間とは誰しも罪人だ。確かにそれは間違いない。
表面上、どんなに取繕っても本質が変わらなければ何の意味もなさない。

第1部最後「最後の審判」におけるアンドレイ・ルブリョフの言葉が重い。

天使の声で語っても、愛がなければただの音でしかない。
予言の力を持ち、すべての謎を解く知識を備え、強い信仰を持っていても、愛が欠けていたら無価値だ。
すべての財産を捨て肉体を犠牲にしても、愛が欠けていたらそんなことをしても何の意味もない。
愛は忍耐と寛容である。愛は嫉妬をさせない。誇らず、貶めさせず。
怒りを鎮め、悪党を消す。嘘を喜ばず、真実を喜ぶ。
愛はすべてを護り、すべてを信じる。愛は無限だ・・・。

何という悟り。しかし、この時点でアンドレイはいまだ悟らず。
いかに表面でなく本質を体得するか。それには長い修業が必要だったということだ。

アンドレイ・タルコフスキー監督「アンドレイ・ルブリョフ」(1966年)
アナトリー・ソロニーツィン(アンドレイ・ルブリョフ)
イワン・ラピコフ(キリル)
ニコライ・グリコフ(ダニール)
ニコライ・セルゲエフ(フェアフォン)
ニコライ・ブルリャーエフ(ボリースカ)
アンドレイ・コンチャロフスキー&アンドレイ・タルコフスキー(脚本)
ヴャチェスラフ・オフチンニコフ(音楽)

ところで、タルコフスキー映画に頻出する水と火はここでも健在だ。
火は戦いを表し、水は祈りを示すかのよう。人々の内なる火と水の常なる葛藤を映像化することで、人間の強さと弱さを表現するのだ。しかしやっぱり水は火より強い。そして人間も成分の7割は水・・・。意志を持てば人間はすべてを超えられる。

アンドレイ・ルブリョフの苦悩は必然。そして、それにまつわる懺悔も当然のこと。
そうやって人間は自らをトランスフォーメートしてゆくのである。

映画「アンドレイ・ルブリョフ」は、その歴史解釈を巡って、ソビエト当局の厳しい批判を浴び、国内での上映が5年間禁止された。そして、タルコフスキー自身も創造活動を阻害されることになった。しかし、ショスタコーヴィチやプロコフィエフ、あるいはムラヴィンスキーなど然り、そういう「壁」が立ちはだかったがゆえの「超芸術」がそこにはある。

 


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