クロード・ドビュッシーの革新のひとつは、そのスコアを眺めれば一目瞭然なのだが、音楽を図形的に捉えたことだろうと思った。そう、ロジカルというよりシステムなのである。線(=ロジカル)は理解しやすいがともすると単調になり、一方、面(=システム)は理解し難く様相が複雑ゆえ捉えるのに一筋縄ではいかない。つまり、ドビュッシーの場合、全体像を掴むのに相応の時間を要する、あるいは直感的にイメージすることが大事だということだ。
クリスティアン・ツィマーマンの解釈の妙味は、情感豊かでありながら実に直線的なところ(であるがゆえに美しいということもある)。2つの前奏曲集が、作曲者自身が付した各々の標題を無視してまるで絶対音楽のように、しかもドビュッシー独特の浮遊感を捨て去り、ほとんど独墺系の音楽のような堅牢さで演奏されるのである。
マルグリット・ロンの著した「ドビュッシーとピアノ曲」をひもといた。ドビュッシー直伝の技法や解釈が披露される。まずは、「前奏曲集第1巻」(1909-10)の項。
第1曲「デルフィの舞姫たち」
ドビュッシー自身が国民協会でこの「前奏曲」を初演したとき、彼はゆっくりと、メトロノームのような正確さでひいていました。その響きはやわらかく、宗教的緊張感をもつものでした。
~マルグリット・ロン著/室淳介訳「ドビュッシーとピアノ曲」(音楽之友社)P86
この言葉はそのままツィマーマンの演奏に通じる。
第2曲「帆」
これは海に浮かぶ数隻の小舟の非物質的イメージなのです。・・・
「これは海岸の写真ではないのだ。8月15日用の絵はがきではないのだ!」
~同上書P86
ツィマーマンは物質的であり、しかも色彩豊かだ。
第4曲「音とかおりは夕暮れの大気に漂う」
夜の高鳴りの心を見出す魅力、この世の束の間の幸福のものうさ、明日なき陶酔への渇望なのです。
~同上書P87
無色透明、「空(くう)」の世界。「そのときどきの楽しみを考えるだけでよい」とドビュッシーは言ったそうだが、ツィマーマンはむしろ何も考えていない。
第5曲「アナカプリの丘」
このイタリア(ナポリ)への旅行の思い出では、光と動きの対比とが主役になっています。
~同上書P87
何という細密な動き!!そして、ピアノの音の一粒一粒が匂い立つ美しい演奏。
第6曲「雪の上の足跡」
底しれぬ孤独。ためらい。見わけのつかない足跡。「やさしく、さびしい憾みのように」、しかしつねにきわめて静かに。
~同上書P88
ツィマーマンは優しく語りかける。
ドビュッシー:前奏曲集第1巻
クリスティアン・ツィマーマン(ピアノ)(1991.8録音)
第7曲「西風の見たもの」
これら自然の要素に対する作曲者の情熱から、時間と空間とにまたがった、大自然の叙事詩の調子が借りて、あらゆる時代の大異変が語られています。
~同上書P88
自然への畏怖の念が音化される作品だが、ツィマーマンはあくまで絶対音楽として捉えているようだ。悪く言えば無機的な響き。
第8曲「亜麻色の髪の乙女」
ピアニストとは言えないシューシュー・ドビュッシーが父親そっくりに、まねのできないほど音楽的にまじりけのない感情で、この「前奏曲」をひいていました。
~同上書P89
一点の曇りもない、鮮やかな「亜麻色の髪の乙女」。後半部、テンポを落とし、うねる解釈にツィマーマンの真髄を見る。美しい。
第10曲「沈める寺」
「海」の作曲者にはなじみぶかい揺れ動く世界が、イスの町の宝を覆いかくしてしまいます。
~同上書P89
前奏曲集最も愛好して弾かれるといわれるこの作品こそ、ツィマーマンのこの録音の白眉である。少なくともここだけはツィマーマンもドビュッシーのイメージしたものをそのまま描こうとする。畏怖の念と敬虔さと。おそらく「沈める寺」は完璧な標題音楽なのだろうと思う。
第11曲「パックの踊り」
この小人パックは「真夏の夜の夢」のあの軽快で辛辣な気紛れの世界にあそばせてくれるのです。
第12曲「ミンストレル」
ひかえ目の、適度な、しかしきらめくテンポ。ラヴェルと同様、ドビュッシーはジャズによる呪縛を予感していたのです。
~同上書P91
最後の2つはロンの言うとおりジャズだ。ツィマーマンの演奏は少々堅物的で真面目過ぎるきらいはあるが、音は圧倒的に美しい。何ものにも影響を受けず、孤高の道を進むのがクリスティアン・ツィマーマンの妙である。ドビュッシー録音はその意味でも唯一無二のものだろう。
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