それが企業であれ、家庭であれ、あるいは何であれ、組織のもつ雰囲気や風土というものが、そこに属する人間に多大な影響を与えるということは否定できない大きな事実である。その是非は問わないまでも、人は余程意識をしっかり持っても、長時間ともにする仲間や環境の影響をもろに受けてしまう。
人の脳は面白いもので、1度や2度のインプットではなかなか記憶することができないのだが、たとえそれが無意識下でのものだとしても、何度も反復することにより自然と「癖」になってしまうのだから怖いといえば怖い。
逆の見方をすれば、「石の上にも3年」という諺通り、長い間生活を共にすることで、癖や考え方、あるいは感じ方まで同じようになってしまうのだから人間の環境適応能力というのはある意味大したものだと思う。夫婦が似た者同志になるというのは致し方ないことなのだろう。
ブルックナー:交響曲第9番ニ短調(ノヴァーク版)
レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1990Live)
バーンスタインの唯一残したブルックナーの演奏を長らく封印していた。あまりにコレステロール過剰の人間臭さプンプンの音楽を想像していたことと、最後となった来日公演の2日目に演奏する曲が当初はブルックナーの第9交響曲だったのが、指揮者の都合で直前に初日のプログラムと同じもの(すなわちブリテンの「4つの海の間奏曲」、自作の「ウエスト・サイド・ストーリー」からの管弦楽曲、そしてベートーヴェンの第7交響曲)になったことに半ば怒りを覚えたことが理由といえば理由(バーンスタインのブルックナーには正直抵抗があったが、実演となると聴いてみたいと心底思ったので)。何だか録音では入りきらないのではないかという勝手な想像が働き、この音盤が発売された当初1回きり聴いたものの、予想通り全く感銘を受けなかったから、そのまま棚の奥底に眠らせておいて忘れていたのである。数年前、クラシカジャパンでUNITELの映像が放映された際ももちろん録画したが、結局集中して観ていない。どういうわけか集中してみることができなかったのである。
ところが、ここ数日、なぜかふと思い出し、死の数ヶ月前のバーンスタイン指揮するブルックナーを何度も繰り返し聴いてみた。思ったとおり、人間臭い。特に晩年、解釈が一層粘っこくなったバーンスタインの音楽そのもの。スケルツォなどは象か亀がのらりくらりと歩いているのではないかと思わせるほどの鈍重なテンポで、昔なら聴くなり一蹴していたところだが、これはこれで面白いのでは、と考えられるようになった。
ブルックナーの創作物は「神に捧げられた」彼岸の音楽だといわれる。そうなのかもしれない。しかし、ブルックナー本人は意外に人間界に未練たらたらで、あくまで現世に自己の欲求を訴えかけたいがために同じような形の交響曲をしつこく書き続けたのではないかとも考えられないか・・・。生前結婚もできず、決して裕福とないえない生活をしていた彼は本望だったのか?あくまで人間っぽく、欲望丸出しのブルックナーもこの際魅力的なのではないかと、このバーンスタインの奏でる音楽を聴きながら思ってみたりもした。
弟子や周囲の意見を聴くと、自信をなくし何でも改訂を施したブルックナーのことだから、極めて人間っぽい人間だったんだろうと思う。環境に、つまり周りに振り回されたブルックナーの真意を表現しているのは意外にバーンスタインなのかもしれない。
カール・シューリヒトや朝比奈隆、ギュンター・ヴァントの超名演奏が最右翼なら、このバーンスタイン盤は最左翼というところか・・・。しかし、裏返して考えるなら、実はバーンスタインの表現こそが最右翼なのだろう。
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[…] かというと僕好みでなかった演奏の多くが愛おしく感じるようになった。ドヴォルザークの「新世界」然り、ブルックナーの第9番然り、あるいはチャイコフスキーの後期交響曲集然り。 […]