ハイティンク指揮ロンドン・フィル&合唱団 ショスタコーヴィチ 交響曲第2番ロ長調作品14「十月革命に捧ぐ」(1981.1録音)ほか

「ショスタコーヴィチの真実」という意味合い・文脈で、当時評価された交響曲全集。
半世紀近くを経て、それが良し悪し、あるいは正否を超えて作曲家の真の姿をとらえるものだという印象を一層強くする。

ヴォルコフの「証言」以降、ショスタコーヴィチを取り巻く世界はがらりと変化する。

ソ連の演奏家が、ショスタコーヴィチのことを、体制を礼賛する作曲家だと考えていたとしたら、その演奏は、誤解に基づく的外れな演奏なのではないかというわけだ。そこで注目されたのが、当時進行中だったハイティンクの全集だ。ソ連の演奏が信じられなくなった当時の人々が求めた、嘘のないショスタコーヴィチ演奏として、ハイティンクはうってつけだった。ハイティンクは、これはこういう曲だろうという先入観で表情付けをすることが少ない。そういった懐疑的な姿勢こそが、ショスタコーヴィチの音楽の真の姿を明らかにするものだと思われたのだ。
(増田良介)

偶々、今日教えていただいた以下の言葉が心に刺さる。

本心は見聞・知覚に属さないけれども、又見聞・知覚から離れない。又見聞・知覚に因って見解を起してはならない。又、見聞・知覚に因って念を動かしてはならない。又、見聞・知覚を借りて真のものを効うということから離れてはならない」即かず、離れず、執らわれず、又煩わされずして、自由自在・縦横無尽なれば、すべてが道場となるのである。

偏見は人の常。
知識や常識かを手放すことがいかに大事か。要は、自分の分別に縛られないことだ。日常生活を送りながらいつもそんなことを僕は思う。

レニングラード音楽院の卒業制作として書き上げられた交響曲第1番は、革命世代によって書かれたソヴィエト時代最初の本格的な交響曲である。そこにもむろん、伝統の継承か切断か、の問題が影を落とし、最先端を行こうとするものにありがちなシニカルな驕りと、伝統に対するおもねりや右顧左眄が絶妙なかたちで融合していた。フェイによれば、この交響曲の第3楽章を書き終えた段階で、一時期、彼は自暴自棄になり、自分の作品がお蔵入りするのではないかとの不安に陥った。若い作曲家をそうした不安へと追いやったもののもう一つ別の正体とは、状況の不透明さそのものである。革命政権が求める音楽がどのようなものか、まったく見通すことができなかった。
亀山郁夫「ショスタコーヴィチ 引き裂かれた栄光」(岩波書店)P42

ソヴィエト社会がいずれにせよ限定された、不自由な体制であったことがショスタコーヴィチのこういう状態からも読み取れる。そんな中で、不安と闘いながらも創造された交響曲の素晴らしさ。

1926年5月12日、ニコライ・マリコ指揮によるレニングラードでの初演は大成功を収め、第2楽章がアンコール演奏されるというおまけまでついた。その後、ブルーノ・ワルターによってベルリン初演がなされ、ショスタコーヴィチの名声は瞬くまに世界に広がった。
~同上書P49

ハイティンク指揮ロンドン・フィル ショスタコーヴィチ 交響曲第1番(1980.1録音)ほか

ワルター自身もこの作品に衝撃を受けたことを回想しているが、それほどにショスタコーヴィチの第1作の革新は、とても学生の卒業制作とは思えないものだ。

ショスタコーヴィチ:
・交響曲第1番ヘ短調作品10(1925)(1980.1.15&16録音)
・交響曲第2番ロ長調作品14「10月革命に捧ぐ」(1927)(1981.1.25, 27&28録音)
ロンドン・フィルハーモニー合唱団(合唱指揮:ジョン・オールディス)
ベルナルト・ハイティンク指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
・チェロ協奏曲第1番変ホ長調作品107(1959)(1984.4.2&3録音)
リン・ハレル(チェロ)
ベルナルト・ハイティンク指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

ハイティンクのすごさを確信したのは、僕の場合、どちらかというと第2交響曲ロ長調を繰り返し聴いてだ。
この、いかにも体制に迎合した交響曲が、(歌詞の内容は横に置くとして)いかに中庸に、いかに先入観なく、そして聴き手にそれを求める姿勢もなく、再現されたものであるか。

ショスタコーヴィチにとって十月革命は当然のことながら、レーニンの名と固く結びついていた。すでに述べたとおり、交響曲第1番の第3楽章「レント」や最終楽章に、レーニン追悼の意思を込めていたが、この第2番を作曲する中でも、おそらくは何度か、2年前の春、レーニン廟を訪ねたときの記憶が蘇ってきたことだろう。1925年3月、モスクワ音楽院での自作演奏会のためにモスクワ入りした彼は、その前日、降りしきる雨のなか、赤の広場へと足を運んでいる。果して彼はその時、霊廟の建設とレーニンの遺体保存に尽力した人物の一人(当時の外国貿易人民委員レオニード・クラーシン)が、かつてシベリアの都イルクーツクで少年時代を送り、自分の祖父ボレスラフとも親しい間柄であったことを知っていただろうか。ショスタコーヴィチは、その日、赤の広場の長い列に立ち、雨にぬれて黒々と光る木造の廟内に入り、地価の安置室に降り立った。
~同上書P54

亀山さんのこの描写が真実なのかどうか、僕は知らない。
どれほどの脚色があるのかもわからない。
何にせよ、他人の心の内側まではまったく読めないというのが分断された人間の有様ゆえ、ショスタコーヴィチの本音は今となっては誰にもわからない。

ただし、年月の経過とともに名作は一人歩きするもの。
おそらくこの曲も、1世紀以上を経た今ついに、間違いなく「体制迎合的でない」ハイティンクの解釈こそが持て囃される、真に愛される時期が来ているのではなかろうか。

ショスタコーヴィチは、交響曲第2番の出来ばえにかなりの自信を持っていた。
~同上書P61

本人には自負があり、また計算があったのだと亀山さんは指摘する。
(それが間違いなかろう)
そして、こんなエピソードも披露してくれているのだ。

ソヴィエト楽壇の重鎮として知られたミャスコフスキーはため息まじりにこう表現している。
「コンサートでこの曲を聴くと、ただ圧倒されるのです。どの箇所をとっても力強く、・・・全体としてきわめて簡潔でありながら、ひじょうに興味深い方法で完璧に計算しつくされている。彼は鼻持ちならない若者ですが、本当に偉大な才能の持ち主です」

~同上書P63-64

個人的には、実演で聴いてみたい交響曲のひとつだ。
おそらく実演に触れない限りこの交響曲の真意はつかめまい。
今や、一人歩きしたレーニン讃美の革命交響曲がどう表現され、僕たちの心にどのように響くのか、実に興味深いところだ。

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