出逢わなければ、私の人生は違ったものになっていただろう

メンデルスゾーンの少年時代の師であったカール・フリードリヒ・ツェルターのゲーテとの書簡集が公になったとき、ツェルターがメンデルスゾーン家のことを差別的に言及しているのを知り、姉のファニーが怒りを顕わにしたことは前にも書いた

これまで数多のワークショップを主宰し、大勢の若者を目の当たりにしてきた経験から、あるいは自身の人生経験から「『自分に起こる出来事』で無駄なものはひとつもなく、どんなにそれがマイナス的なものだとしても最終的には必ず意味がある。よって過去の振り返りを詳細にすることで自らの「今」の在り方を認め、受け容れることが重要だ」と僕は口角泡にして説く。

そのことから言うと、かのメンデルスゾーン姉弟と師ツェルターの間で起こった問題は、というよりそこには誤解もあると思うのだけれど、ファニーやフェリックスが決して気を病むことではなく、ツェルターの存在があったお蔭で自分が一芸術家として社会的にも大成できたんだということを認め、むしろ感謝すべきことなんだ。

なぜならフェリックスは早くも9歳くらいから英才教育という名の下、ツェルターの薫陶を受けているのだし、ましてや12歳の時に文豪ゲーテに引き合わせてくれたのもツェルターだったのだから・・・。
さらには、後年になってフェリックスは次のように述懐もしているのだから。
「もしワイマールの街とゲーテに出逢わなければ、私の人生は違ったものになっていただろう」

人は誰しも攻撃を受けると途端に自己防衛本能が過剰に働き、心を閉ざす。と同時に、自分を正当化し相手を徹底的に責めるようになる。
僕は思う。物事の全体を観た方が良いと。つまり、自身の人生においても全体観が大事だと。(現実には口で言うほどそれは容易くないけれど)

少年時代のメンデルスゾーンが書いたシンフォニーを聴く。とても15歳の作とは思えない神々しさ、あるいは完璧さ。数年後にロンドンで演奏された時も最大の讃辞が贈られたという。

メンデルスゾーン:
・交響曲第1番ハ短調作品11(1984.10録音)
・八重奏曲作品20からスケルツォト短調(ロンドン初演の際の第3楽章代替管弦楽版)(1984.10録音)
・劇音楽「真夏の夜の夢」序曲作品21(1984.10録音)
・序曲「フィンガルの洞窟」作品26(1985.2録音)
・序曲「静かな海と愉しい航海」作品27(1986.11録音)
クラウディオ・アバド指揮ロンドン交響楽団

ちょうど第1交響曲を書いている頃か、あるいは書き上げた頃か、保養地ドーベランでとある事件が起こった。
姉のファニーと浜辺を散歩していた時、2人の若者が駆け寄ってきて、石を投げつけてきた。そして、唾を吐きかけ、繰り返し「このユダヤの餓鬼どもを見ろ!」と。
一見快活で明朗なメンデルスゾーンの作品には、どこか暗く不安定な要素が常に垣間見える。音楽芸術において翳の部分は重要な側面だから、上記のような経験すら血肉となり、大いに有効なんだ・・・。まぁ、それにしても15歳の少年にとっては衝撃だったろう。

ベルリン・フィルの音楽監督になる前のアバドの演奏は実に直截的で、しかも抜群の統率能力を持ってしてオーケストラをコントロールするのだから悪かろうはずがない。このメンデルスゾーンの交響曲集などは最高のひとつ。


コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む