エリック・サティは「卵のように軽やかに」と言った。
あの、表現し難い浮足立った不思議な音調は、聴けば聴くほど虜になるものだ。
彼の、後にも先にもない孤高の境地を坂本龍一は次のように言った。
坂本 ひとつ、サティがなぜあんな音楽を書くようになったかという謎ですが・・・もしかしたらブリコラージュという言葉がけっこう近いのかも、とフト思いました。
—どういうことでしょう?
坂本 つまり彼は明確にアカデミーの音楽とは違うものを目指した。その時、身辺にあるものに目を向けるとキャバレー音楽やら路上音楽やら、グレゴリアン聖歌以前の古代への幻想だったであろうと。それら想像も含めたあり合わせの音楽から、あの不思議な音楽が少しずつ形になっていったのではないか、と想像したんです。ふとした思いつきだし、全然実証的ではありませんが。
(坂本龍一×小沼純一「宙吊りの状態のままに—サティの謎と固有性」)
~「ユリイカ」2016年1月臨時増刊号「エリック・サティの世界」(青土社)P59-60
偏屈さの内側にある抗い精神の象徴こそが、ジムノペディであり、またグノシェンヌではなかったか。
真面目な、整然とした、常識の枠を超えない奏法とでもいうのか、チッコリーニの、しかしサティへの愛情こもる、思念に塗りたくられた(?)音楽の病みつきになる美しさ。冒頭「グノシェンヌ」から、サスペンス・ドラマを見せられるような視覚的な演奏に言葉を失う。あるいは、ゆっくりと、ルバートを効かせ、想いを込めて歌う「ジュ・トゥ・ヴ」なども、他では聴くことのできない至宝だ。そして、チッコリーニとタッキーノのデュオによる「風変わりな美女」もまた、あえて不真面目な音調を前面に押し出して、世界の矛盾を哄笑するサティの心境を見事に表現する演奏だと僕は思う。
誰もが私のことを音楽家ではないというにちがいない。それは正しい。
そもそも経歴のはじめから、いつだって、私はずっと音響計測者に分類されてきた。たしかに私の作品は純粋なる音響計測法によってつくりだされたものなのだ。
~エリック・サティ/秋山邦晴・岩佐鉄男編訳「卵のように軽やかに」(ちくま学芸文庫)P95
サティの言う通りなのだと思う。
音楽というより音響のマジックこそが彼の真髄なのだと、アルド・チッコリーニを聴きながら僕は思った。