久遠

beethoven_smetana_13.jpg自分の行動が「理にかなっている」のかどうかふと考えた。
何が「自然」で「正しい」のか?
「自分中心」の考え方でなく「相手が喜んでくれる」行動をすることだろうと自分を戒める。
「道に迷った」時に効果的な音楽がベートーヴェンの後期の深遠な世界(特に最後がフーガで終わる楽曲にそういう効果があるように感じる。例えば、第13番弦楽四重奏、あるいは「ハンマークラヴィーア」ソナタ、第31番ピアノ・ソナタ)。「静寂の世界」の中で「神の音楽」を生み出したルートヴィヒ。「無音」の爆発のような「久遠」の理想。
本来のあり方-「元ある位置」に戻してくれるという不思議な波動。

フィリップ・カウフマン監督作「存在の耐えられない軽さ」を観る。
チェコの作家ミラン・クンデラの原作。1968年激動の「プラハの春」を舞台に繰り広げられる一人の男と二人の女という三角関係を軸にしたトマーシュとテレーザの愛の物語。
全編に流れるヤナーチェクの音楽が美しい。

ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第13番変ロ長調作品130(原典版-大フーガ付)
スメタナ四重奏団

もともと終楽章に長大で難解なフーガをもった楽曲だったが、大衆に受け入れられないことを恐れ、楽聖が死の数ヶ月前(文字通り最後の作品!)にあらためて創作したフィナーレをもつ作品130の四重奏曲。作曲者の最終的な意思を尊重するという考えから軽めの終楽章(とはいえ、明らかに後期の厳しさをもつ)の版で演奏されることが多いが、僕は反対。ベートーヴェンが本来意図したものはこの「大フーガ」によって完結するものであり、昇華されるのだと感じるから。
スメタナ四重奏団壮年期のこの録音は素晴らしい。それに¥1,050で手に入ることも嬉しい。1965年、プラハにおけるレコーディングだからまさに「プラハの春」前夜。政治的云々はともかく、この時代の東側の世界は独特の精神性を秘めており、ことクラシック音楽界においてはもっとも輝いていた時であり場所でなかろうか。ある意味芸術家が国の完全な庇護の下、音楽だけをやっていられたから。

ところで、フーガは「遁走曲(「遁走」とは「逃げ出す」こと)」と訳されるが、どうしてこういう和訳になったのだろうか?
僕には、「いつまでも続く永遠」を感じられる。「久遠曲」なのである。

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