バレンボイム指揮シュターツカペレ・ベルリン ベートーヴェン 交響曲第2番ほか(1999.5-7録音)

微かに春の気配を感じる。
こんな日はベートーヴェンの音楽だ。中でも、彼の初期は、芽吹く春のような気品を保つ。未来への希望に溢れているせいなのだろうと思う。

ダニエル・バレンボイムがウェスト・イースタン・ディヴァン・オーケストラと録音したベートーヴェンの交響曲全集は素晴らしいものだった。20余年前のシュターツカペレ・ベルリンのものと比較してもどの曲も格段に生気満ち、より自由で、しかし説得力のある、本当に最高の出来。

かつてバレンボイムはサイードとの対談で次のように語っている。

サイクルとしてとらえることは、とても価値があると思っている。作曲家や作家の作品は一つ一つが、その次の作品を補完するものだから。ばらばらに切り離されたものとしては存在していない。ベートーヴェンの場合には、とりわけそのことが強調される。彼の場合、ほぼすべての交響曲がそれぞれ別の作風を持っているためだ。ベートーヴェンの交響曲を作品群としてみることは、そういう意味でモーツァルトの交響曲やブラームスの交響曲を作品群としてみることよりも重要だし、ブルックナーの交響曲に比較してもそうだ。ベートーヴェンの場合、どれもみな傑作なのだけれど、一つ一つの交響曲についてみると、まるでベートーヴェンが毎回ほんとうに新しい作風、新しい和声や新しい様式、新しい韻律の作風を見つけ出したかのような感じがする。そのためそれぞれの作品の心理状態はまったく違うものになっている。交響曲の4番と5番、あるいは6番と7番という、とても近い関係にあるものを取り出してみると、たがいに大変似たところはあるけれども、それぞれ別の作曲家がつくったとしてもおかしくはない。
アラ・グゼリミアン編/中野真紀子訳「バレンボイム/サイード『音楽と社会』」(みすず書房)P187-188

ベートーヴェンの革新性は、誰が見ても明らかなものだが、バレンボイムが言うように、9曲をサイクルとして捉えることはとても大切なことだと僕も思う。そして、ベートーヴェンにとっては音楽がすべてであったことも事実だ。

ベートーヴェンは、自分の考えを伝えるのに音楽を使ったので、話し上手ではなかった。ベートーヴェンの偉大さは、彼が完全に音楽家にあったことに由来すると僕は思っているが、ここで「完全に」という意味は、彼が生涯を通じて音楽を食べ、音楽を眠り、音楽を飲んだということであり、それを僕はつよく信じている。彼はとてもモラリストで高い道徳性をもっていた。それが彼の一部になり、音楽に入り込んでいたことは、音楽そのものを道徳的にしたわけではないと思う。それがナチスによって使われたということが、それを証明している。
~同上書P193

ベートーヴェンがモラリストであり、道徳性が高い人であることは間違いなかろう。後世から楽聖と呼ばれる所以だ。

ベートーヴェン:
・交響曲第1番ハ長調作品21
・交響曲第2番ニ長調作品36
ダニエル・バレンボイム指揮シュターツカペレ・ベルリン(1999.5-7録音)

ベートーヴェンの春たる最初の交響曲はもちろん、耳疾による難聴の兆しのあった頃の傑作ニ長調交響曲は、重厚かつドイツ精神の顕現であり、新録と比較しなければこれはこれで説得力のある演奏であると僕は思う。

春の兆しの激しい雨は、慈雨だ。
ベートーヴェンが咆える。

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