「田園」についてヴァーグナーの述べている言葉は正鵠を射ている。「田園」は大体において宗教的な作品であり、ベートーヴェンの自然帰依の表現である。人間の心と大自然との統一と調和、その描写にこれほども没入することは、これまで一芸術家にほとんど与えられたことのない課題であった。それだけに不思議なのは、長らくこの交響曲が市民的なものと見なされ、ベートーヴェンの最も弱い作品とされて来たことである。
(1927年)
~ヴィルヘルム・フルトヴェングラー/芦津丈夫訳「音と言葉」(白水社)
独自のアゴーギクで展開される幽玄なる「田園」交響曲。
愉悦とはまったく乖離のある表現だが、これほどに深遠な絶対交響曲はなかなかない。
自然と魂が一体となるベートーヴェンの聖なる創造力が生み出した最大傑作の一つを、大病から復活を遂げたフルトヴェングラーが心を込めて、しかし客観的に歌う。
解釈は多種多様。
どんなものであれ相応の説得力があるなら是としよう。
少なくとも僕にとってこの録音はフルトヴェングラーの最高傑作の一つだ。
ともかく第1楽章「田舎に到着したときの愉快な感情の目覚め」の深沈たる表情に呆然。それもそのはず、後の「歓喜の歌」に結実する萌芽がここにはあるのだ。「人類皆大歓喜」の思想を哲学的に捉える指揮者の極意。
続く第2楽章「小川のほとりの情景」もテンポは遅い。もはやハイリゲンシュタットの小川などではなく大河の如し。ここで聴けるのは当時のウィーン・フィルの、特に木管奏者の妙なる力量。
第3楽章「田舎の人々の楽しい集い」は、いかにも人を愛するフルトヴェングラーの心の投影であり、第4楽章「雷雨、嵐」は、大自然を畏怖する彼の謙虚な思いが見事に反映される名演奏。しかし、(世間が何と評価しようと)白眉は終楽章「牧歌、嵐の後の喜ばしい感謝の気持ち」にある慈愛の念。特に冒頭のあまりに緩やかな、思いのこもった音たちに思わずうなり、コーダの偉大なるものへの感謝と尊崇の音楽に僕は言葉を失う。
一方の、交響曲第8番は、ストックホルム・フィルとの戦後復帰1年半後の老練のライヴ録音。灼熱の棒に、慣れないオーケストラが動揺しながらも熱く、また揺れに揺れ音楽を再生してゆく様子が手に取るようにわかり、興味深い。音は悪いが、何よりフルトヴェングラーの執念がそこかしこにまとわりつく(?)のである。
第1楽章アレグロ・ヴィヴァーチェ・エ・コン・ブリオの猛烈な追い込みと迫真。また、可憐な第2楽章アレグレット・スケルツァンドは、さすがにフルトヴェングラーの棒にかかると相応の重みを持つ。第3楽章テンポ・ディ・メヌエットについても同様。素晴らしいのは終楽章アレグロ・ヴィヴァーチェの歓喜の爆発。