私は、プラトンの信念である、「リズムとハーモニーは魂の内奥への道を見出すから」音楽の訓練は有効な手段である、という言葉に同感だ。バッハやベートーヴェン、モーツァルト、ハイドン、シベリウス、ブラームス、バルトーク、ストラヴィンスキー、ヴァーグナー、そして他の多くの偉大な作曲家に夢中になったことが、私に歓びを与えるのみならず、人生への理解を深めてもくれたこと、そしてこのように感じるのは決して私だけではないと、ひとり勝手に信じている。
~アンソニー・ストー著/佐藤由紀・大沢忠雄・黒川孝文訳「音楽する精神—人はなぜ音楽を聴くのか?」(白揚社)P199-200
首肯。
思考や感覚をいかに言語化できるか、あるいは視覚化するか、アウトプットの能力を錬磨することが重要だ。
揺るぎない確固たる造形力。
優れた音楽家に共通するのはアウトプットの力だ。それは音楽家に限らず表現者ならばそうだろう。クルト・ザンデルリンクの晩年のライヴ録音に通底する「大いなる力」の源は自らを信じる力と他力を信じる力、すなわち信仰の掛け算なのだと思う。
ブラームスのハイドン変奏曲の、一見何もしない、自然体の中にある限りない自由の謳歌。音楽は喜びを沸々と湧き立たせ、コーダの途方もない爆発力に僕は感化される。内田光子を独奏においたモーツァルトの協奏曲ハ短調K.491も、重厚な、しかし、決して暗いばかりでない、第1楽章アレグロ冒頭から音楽をする喜びに満ちる創造物。モーツァルトは悲しみさえも楽しむ人なのだ。陰陽相対、この世のあらゆる事象を超えたところにあるのだろうモーツァルトの本懐。若い頃にはわかり得なかったモーツァルトの真実が、この演奏によってようやく気づかされた名演奏。
実に生き生きとしたシューマンの交響曲が素晴らしい。
ローベルトは今一番油が乗っている。昨日もう一つの交響曲をはじめた。それは1楽章と、アダージョとフィナーレのある者である。私はそれについて良く知らないが、ローベルトの仕事ぶりと、しばしば彼の部屋から荒々しくひびいて来るニ短調の音色から、新しい作品が形づくられているのが分る。
(1841年6月30日付、クララの日記)
~若林健吉著「シューマン—愛と苦悩の生涯」(新時代社)P254
新婚のシューマンには創造の女神がついていたのだろうか、アタッカで奏されるニ短調交響曲は、集中力と求心力に富む傑作だが、これまたザンデルリンクの表現が、シューマンの神髄を鷲づかみにした、若々しく、スピード感に溢れたもので、実に素晴らしい。デモーニッシュな側面は後退するも、クレッシェンドによって解放が導かれ、ディミヌエンドで沈潜していく様が見事。第2楽章ロマンツェの懐かしさ。さらに、終楽章の奇蹟!