詩人ディラン・トマスは万物生成の真理がわかっていたのだろう。
世界を動かしている根源的な力の理解、これが彼の詩の出発だった。彼はそれを、生成と破壊という二つの力に見た。この二つの力の弁証法的運動によってマクロコスモスとしての世界は動かされ、同時にミクロコスモスとしての人間も同じように動かされるとするのである。すなわち、世界が一つの有機体であり、人間も一つの有機体であるとすれば、そのとき人間は世界の一部として運動に参加しているがゆえに、人間の生き方というものは、そのまま世界の根源的な運動の相である生成と破壊の弁証法的な発展過程に表されていると見たのである。
「トマスの世界」
~松田幸雄訳「ディラン・トマス全詩集」(青土社)P432
ちなみに、トマスはヘンリ・トリース宛の手紙の中で次のように書いているそうだ。
わが肉体には、獣と天使と狂人が住まう。
トマスに限らず、その3者は人類覚醒のきっかけを創る役割を持った人間に与えられているであろう性質だ。イノベーターとしての智慧と勇気と慈しみの心。孔子の言う、智仁勇こそディラン・トマスの核心だったのだと僕は思う。
トマスの詩に触発され、彼の詩に音楽を付したジョン・コリリアーノの、文字通り破壊と創造の止揚たる魔法に感化される。
どの瞬間も、まるで映画を観るかのような効果的な音楽に溢れている。小難しい現代音楽というより、実に写実的な(?)音にトマスの世界が大いに広がり行くのを僕は感じるのだ。人間の深層にある不安を煽るような音塊が聴く者の心臓を貫くような烈しさに襲われるかと思えば、次の瞬間すべてが停止したかのような(あくまでイメージだが)静寂が訪れる。なるほど、確かにここにはディラン・トマスの魂が宿っている。
芥子種の太陽の光を浴びて、
鵜がかすめ飛ぶ 急流と
寄せては返す海のほとり、
鳥たちの嘴とおしゃべりのなかの
竹馬の高さほどの家で、
くねる入江の墓のなかの この砂粒の日、
彼は、流木の風のまにまにくつがえる
三十五回目の年齢を祝い、また撥ねつける—
青鷺たちは 首を伸ばして 空を突き刺す。
「誕生日の詩」
~同上書P310
30分近くに及ぶ「誕生日の歌」が白眉。
大自然の運行の中に、そして生きとし生けるものすべてとの共生の中にトマスが見た自身の命の尊さと儚さを、ジョン・コリリアーノは見事に歌い上げる。あるいは、スラットキンの指揮の自然体は、トマスの詩に同調し、またコリリアーノの音楽に同期しているからなのかどうなのか。何て心に染み入るのだろう。