やっぱり「海」

ドビュッシーがJazzのイディオムに近いと観念的にわかっていたが、「海」を聴いていて、あるいは「前奏曲集」を聴いて、そのことがようやく実感できた。何より一般的な「型」にはまらないということ。つまり、自由だということ。マイルスにせよコルトレーンにせよ、発想がともかく「自由」だとあらためて感じた。

十人十色という。皆、感覚、感性が異なる。それでも人は自分の概念にこだわる。なかなかそこを抜けられない。イメージも画一的になりがちで、どうも固執してしまう。「人」はというより「僕」自身がそんな様子。殻を破ってすべてとつながる、そんなことをやっぱり夢見てしまう。

嗚呼、海よ。山奥で生まれ育った僕は基本的に「海」は知らない。せいぜい湖だ(滋賀県生まれのせいもあろう)。ただし、水については愛着がある。美味しい水を飲むと心が晴れやかになる。食事時はたくさん水分を摂る。「水」は自由だ。様々な形に変化する。

ドビュッシー:
・管弦楽のための3つの交響的素描「海」
・牧神の午後への前奏曲
・神聖な舞曲と世俗的な舞曲
レナード・スラットキン指揮セントルイス交響楽団

面白い。アメリカ的な非常に明確な輪郭を伴った演奏。ゆえにより一層音楽がわかる。ぼんやりとした印象派風の作りをある意味無視しているところはフランス人的価値観からいうといただけないかも。でも、音楽が「見えれば」良い。十人十色、いろんな解釈が存在するから。

研修中日を迎え、懇親会。もともとお酒には弱いからだいぶ酔っ払った。
「海」を聴きながら、頭の中は「印象派」(笑)。
さて、明日は一日フリー。やるべき宿題がたくさんあるのでひとつひとつじっくりこなしながら少しばかり休憩。嗚呼、疲れた・・・(苦笑)。


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