マリア・カラス ヴェルディ・アリア第2集(1963.12-64.4録音)を聴いて思ふ

たとえピークを過ぎても、マリア・カラスの声は強烈な印象を残す。
その歌唱は、僕たちの魂を揺るがし、心を釘付けにする。一度聴いたら、その歌は耳から離れないのである。

カラスが友人に本音を語った晩年のインタビューは、天才マリア・カラスの偉大さと、人間マリア・カラスの弱さを僕たちに開示してくれる。誰もが不完全。完璧な人間などいないのだ。だからこそ、その創造物は心をとらえるのだろう。

私の彼(アリストテレス・オナシス)にたいする態度が、少なくとも彼が(ジャクリーン・ケネディと)結婚する前のそれと同じということはあいえないわ。他人を深く理解するには時間がかかるし、それは自分自身についてもいえることよ。私たちは、他人が自分を変えようとしていると思うものだけれど、自分のほうがよほど必死になって他人を変えようとしているかもしれないことは、なかなか認めようとしないものなんです。自分の流儀に合わないという理由で他人の流儀を受け入れることを拒んでいては、けっして客観的にはなれないわ。
ステリオス・ガラトプーロス著/高橋早苗訳「マリア・カラス―聖なる怪物」(白水社)P502

カラスは自分を「恨みは持ち続けない性格だ」と分析する。
彼女はオナシスのことも間違いなく許していたし、おそらくメネギーニについても同様。
彼女の歌にある不思議な魅力は、自身の芸術に対する絶対的厳しさと、最終的には誰をも受け入れようとする大いなる包容力が掛け合わさって生み出されたものだったのだと思うのである。

もちろん、役づくりもリハーサルのうちだけれど、それは公演とともに発展していくものです。歌唱テクニックでつまずくこともあるわ。今日、あるフレーズがうまく歌えなくても、次の日にはうれしいことにちゃんと歌える、という場合もあります。こうして、しだいに音楽と役になじんでくると、最初はほのめかすだけで精いっぱいだった微妙なニュアンスをあますところなく表現できるようになるのよ。
~同上書P518

すべては彼女の絶え間ない努力と練習の賜物だが、それにしても深層をキャッチする才能があったからこそ開花したのは事実であろう。

イタリア音楽には総じて流れるようなテンポがあり、どれほどゆっくりであろうと、物事はリズミカルに展開します。これをマスターすれば、役づくりは進歩しつづけるわ。私たちの潜在意識は成長をとげているでしょうし、いつも力になってくれるでしょう。すべては論理的でなくてはならないし、道理にかなっていなければなりません。
~同上書P518

彼女の音楽に対する正確な捉え方は、彼女の歌にそのまま表される。
いかにも人間らしい、感情の浮き沈みが、喜怒哀楽が、どの瞬間も見事に刻印される。

ヴェルディ・アリア第2集
・歌劇「オテロ」第4幕
―そうらしかったわ・・・私のお母様に
―泣きぬれて野のはてにひとり(柳の歌)
―アヴェ・マリア
・歌劇「アロルド」第1幕
―おお、神様、私を息づかせて下さいませ!・・・おお、神様、私をお救い下さい!
・歌劇「ドン・カルロ」第3幕
―むごい運命よ
・歌劇「アロルド」第2幕
―神よ、我は何処に
・歌劇「ドン・カルロ」第2幕
―さあ、もう嘆きなさるな
マリア・カラス(ソプラノ)
ニコラ・レシーニョ指揮パリ音楽院管弦楽団(1963.12.16-17, 27,30 &1964.1.6, 2.20-21, 4.22録音)

「オテロ」からのデズデモーナの深みのある「柳の歌」の力強い哀感と激性、そして「アヴェ・マリア」の敬虔な歌は、マリア・カラス一世一代の歌唱。また、「ドン・カルロ」からエボリ公女のアリア「むごい運命よ」の生々しい圧倒的な声にも思わずため息が出る。

私たちは、オペラを成功させるためにいろいろと変更を加えるけれど、雰囲気や詩情、劇場作品を成立させている神秘性はそのまま残しているわ。これに関しては古びたところは何もないですから―作品にこめられた感情はつねに真実だったし、深い感情、正直な感情はこれからも真実でありつづけるでしょう。歌うことは自分の力をひけらかす行為ではなく、すべてのものが調和する、そのような高みを目指そうとする試みなのです。
~同上書P520-521

マリア・カラスの言葉はすべてが的を射る。

 

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