高田三郎、そしてシベリウス

猛暑に耐えかねて、アポイントをキャンセルし、夜は優雅に合唱曲を聴きながら新規のホームページ制作に時間を費やした。蒸し上がるような暑さはもはやクーラーなしでは凌ぎ切れるものではなく、時折エアコンのスイッチをつけては消し、消してはつけを繰り返し、少しでも涼しくなる楽曲を何度も聴く。1枚はシベリウスの合唱曲全集。もう1枚が高田三郎の名作「水のいのち」。真に素晴らしい音楽・・・。

『海よ』(作詩:高野喜久雄)
おお 海よ たえまない始まりよ あふれるに みえて あふれる ことはなく 終わるかに みえて 終わることもなく 億年の むかしも いまも そなたは いつも 始まりだ おお 空へ 空の高みへの 始まりなのだ
のぼれ のぼりゆけ そなた 水のこがれ そなた 水のいのちよ

人が生まれる以前から存在した「水」。そしてその「水」から生まれた我々。悠久の時間を経て、時には猛威を振るう相手を横目に、今なおなくてはならない「水」。数学者であり詩人でもある高野喜久雄の心と、音楽家高田三郎の魂が宇宙的規模で見事にひとつになる。

水のいのち―高田三郎作品集1
・混声合唱組曲「水のいのち」
高田三郎指揮神戸中央合唱団
高田江里(ピアノ)
・混声合唱組曲「心の四季」
高田三郎指揮大久保混声合唱団
菊池百合子(ピアノ)

そして、「クリスマス・キャロル」に始まり、「神聖祝典作品」、「子どものための歌」、「愛国歌と行進曲」が網羅されたシベリウス。とりわけ「愛国歌」が並ぶ後半は、名作揃い。「フィンランディア」の、例の中間部の旋律に詩をはめ込んで合唱曲に生まれ変わった「フィンランディア賛歌」はもちろん素敵だが、僕のお気に入りは無伴奏少年合唱による「朝の霧」(1896)や「アテネ人の歌」作品31-3(1899)。ロシアの侵攻を非難し、自国の完全独立を夢見たフィンランド国民の「心(怒りと涙と、そして勇気と)」が見事に反映する。

『朝の霧』(詩:J.H.Erkko)
太陽は輝きを失せ 月は力なく 朝の霧に遮られ 何も見えない
しかし 私たちは フィンランドの歌を 声を輝かせて歌い上げながら
一日の勝利に常に変わらぬ信頼を寄せるのです

『アテネ人の歌』(詩:Viktor Rydberg)
汝が 前線で大胆に攻め落ちるなら
あるいは 国家や故郷や町のために斃れるならば
死とは なんと幸せなことだろう

『フィンランディア賛歌』(詩:V.A.Koskenniemi)
おお、フィンランドよ、見よ、夜明けだ
夜の脅威は追い払われ 朝を迎えて ひばりが鳴いている
まるで大空自らが奏でるように

シベリウス:混声、女性、少年合唱のための合唱作品全集
ピア・フロイント(ソプラノ)
トム・ナイマン(テノール)ほか
ハンヌ・ノルヤネン指揮タピオラ室内合唱団
カリ・アラ=ポラネン指揮タピオラ合唱団

機械のスイッチを切り、自然を感じながら聴くこれらの音楽は格別。暑さも吹っ飛ぶ涼しさよ。

※夜は多少涼しくなったが、日中は黙って座っているだけで大粒の汗が噴き出すほど。夏だからしょうがないのだけれど。


2 COMMENTS

雅之

おはようございます。

「雪」も「水」。暑い日が続きますので、今朝も引き続き、涼しくなっていただきましょう。

・・・・・・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン 1850年6月27日 – 1904年9月26日)が『怪談(Kwaidan)』の中で雪女伝説を紹介している。

あらすじ
武蔵の国のある村に、茂作と巳之吉という2人の樵が住んでいた。茂作はすでに老いていたが、巳之吉の方はまだ若く、見習いだった。

ある冬の日のこと、吹雪の中帰れなくなった二人は、近くの小屋で寒さをしのいで寝ることにする。その夜、顔に吹き付ける雪に巳之吉が目を覚ますと、恐ろしい目をした白ずくめの美しい女がいた。巳之吉の隣りに寝ていた茂作に女が白い息を吹きかけると、茂作は凍って死んでしまう。

女は巳之吉にも息を吹きかけようと巳之吉に覆いかぶさるが、しばらく巳之吉を見つめた後、笑みを浮かべてこう囁く。「おまえもあの老人(=茂作)のように殺してやろうと思ったが、おまえは若くきれいだから、助けてやることにした。だが、おまえは今夜のことを誰にも言ってはいけない。誰かに言ったら命はないと思え」

それから数年して、巳之吉は「お雪」という、ほっそりとした美しい女性と出会う。二人は恋に落ちて結婚し、10人の子供をもうける。お雪はとてもよくできた妻であったが、不思議なことに、何年経ってもお雪は全く老いることがなかった。

ある夜、子供達を寝かしつけたお雪に、巳之吉がいう。「こうしておまえを見ていると、十八歳の頃にあった不思議な出来事を思い出す。あの日、おまえにそっくりな美しい女に出会ったんだ。恐ろしい出来事だったが、あれは夢だったのか、それとも雪女だったのか……」

巳之吉がそういうと、お雪は突然立ち上り、言った。「そのときおまえが見たのは私だ。私はあのときおまえに、もしこの出来事があったことを人にしゃべったら殺す、と言った。だが、ここで寝ている子供達を見てると、どうしておまえのことを殺せようか。どうか子供達の面倒をよく見ておくれ……」

そういうと、お雪の体はみるみる溶けて白い霧になり、煙だしから消えていった。それ以来、お雪の姿を見たものは無かった。

原典
小泉八雲の描く「雪女」の原伝説については、ここ数年研究が進み、東京・大久保の家に奉公していた東京都西多摩郡調布村(現在の青梅市中部多摩川沿い)出身の親子(お花と宗八とされる)から聞いた話がもとになっていることがわかっている(英語版の序文に明記)。この地域で酷似した伝説の記録が発見されていることから、この説は相当な確度を持っていると考えられ、秋川街道が多摩川をまたぐ「調布橋」のたもとには「雪おんな縁の地」の碑が立てられた。100年前は現在とは気候が相当異なり、中野から西は降れば大雪であったことから、気象学的にも矛盾しない。・・・・・・ウィキペディア「雪女」より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%AA%E5%A5%B3

八雲「雪おんな縁の地」の件を読むと、やはり、クラシック音楽が作られた時代、少なくとも北半球全体が「小氷期」だったことが裏付けられますよね。小泉八雲の怪奇文学作品集『怪談』( Kwaidan)は、最晩年の1904年に出版されました。

シベリウスが「フィンランディア」を作曲したのは1899年(1900年改訂)ですが、まったく同じころ(1897年から1899年にかけて)、フランスではドビュッシーが『夜想曲』を作曲しました。このころ、フィンランドも、そしてフランスでさえも、現在より平均気温は低かったのでしょうね。

「雲」もまた、「水」の一姿です。

ドビュッシー 『夜想曲』より 1. 雲 (Nuages)
フルネ&東京都交響楽団
http://www.hmv.co.jp/product/detail/2691167

このコンサート、東京芸術劇場で実演を聴きました。フルネが日本のオケを指揮したフランス音楽、デュトワ以上に高く評価しています。格調が高く美しいです。

それにしても、「高濃度汚染水」なんて言葉は聞きたくない!! 「水のいのち」が泣いています。

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岡本 浩和

>雅之様
こんにちは。
雪も雲もすべて水。水というのは本当に大切ですね。
100年ほど前の地球が今とは全く違う状況なんだろうということは容易に想像がつきますが、それにしても経済発展っていったい何なのでしょうね。進歩と引き換えに人類はたくさんのものを失ってきたように思います。

フルネ&都響は数々の名演を残しましたね。99年の夜想曲他を実演で聴かれているということは、当時わざわざこのために上京されたとか?(出張ついでですかね?)それはとても羨ましいです。
それにしても今のインバルといい、都響というオーケストラは本当に良い指揮者ばかり招んでますね。一流のオケになるはずです。

>「高濃度汚染水」なんて言葉は聞きたくない!! 「水のいのち」が泣いています。

同感です!

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