フランツ・リストの先進性のひとつに、音楽を単一楽章で表現しようとしたことがある。例えばロ短調ソナタなどは、限られた枠の中で通常のソナタがもつ楽章構成とソナタ形式の両方を組み合わせて、しかも相当に精神性の高い音楽を試みているところが見事。それに何より当時の聴衆、そして専門家までもがほとんど理解できなかった代物であるにもかかわらず、現代のピアニストのレパートリーの一角を間違いなく担っているところがいかにも「先見」の証明。
あくまで個人的な見解だけれど、僕の心の琴線に触れるのが「ひとつ」という点。これこそが調和、すなわちZEROを希求しており、リストの潜在的な(介在意識的にも?)信仰心がなし得た賜物だと考える。標題音楽(しかも単なる物語の音的描写ではなくそこから読み取れるイメージを音化するという志向が素晴らしい)というもの、そして交響詩という形。あらためて(あるいは今更ながら)感動を覚える。
リストの2つあるピアノ協奏曲にはまったく興味がなかった。何度聴いてもさほど良い音楽だとも思えなかった。しかし、よく考えると双方とも「単一」を志向している点、特にイ長調の方はすべてが融合し、完全に「ひとつ」であることが注目に値する。
ツィマーマンは滅多にレコーディングしなくなったけれど、80年代後半の、この頃の彼のピアノが僕は好きだ。何より「色気」があった。2つのコンチェルトは若きリストの妖艶で肉感的な音が見事に表現されており、イ長調の方の、いかにも悟りを開いたかのような「形」の中にまだまだ世捨て人になり切れない(笑)煩悩が見え隠れし、面白い(それは僕が勝手にこの演奏から読み取っているだけかもしれないが)。
さらに、すごいのは「死の舞踏」。「怒りの日」を主題にした(ここではベルリオーズが「幻想交響曲」終楽章で使用したグレゴリオ聖歌「怒りの日」が主題として使われる)この陳腐な変奏曲が何とも傑作に聴こえるのだから(リストはベルリオーズに触発された?)。
怒りの日、その日は
ダビデとシビラの預言のとおり
世界が灰燼に帰す日です。
審判者があらわれて
すべてが厳しく裁かれるとき
その恐ろしさはどれほどでしょうか。
これこそまさに現代(2013年?)への警告。しかし、これは決してすべての「死」を意味するものではない。むしろすべてが「一」に帰するべきときがそこまで来ており、そのために懺悔せんことを謳うものではないのかと僕は思うのである。
リストの真意もそこにあったのでは?(あくまで独断と偏見)。
ところで、小澤征爾はやっぱり巧い。抜群・・・。
さて、明日はいよいよ「中島剛ピアノ・リサイタル」。プログラムの流れが下記のように変更になった。お楽しみに!
・愛の夢第3番
・ラ・カンパネラ
・3つのペトラルカのソネット
・ダンテ・ソナタ
休憩
・ピアノ・ソナタロ短調
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