シューリヒトのブル8

ヨゼフ・スークが60年代に録音した数々の名演奏を聴いていて、録音技術でいうところのアナログの時代で、かつ4チャンネルやカセットテープが出始め、少しずつ一般大衆に受け入れられつつあったあの頃というのは政治的には不安定だったものの、オーディオ愛好家的にはひょっとしてとても幸せだった時代ではなかったのだろうかと、(決してオンタイムに体験していないのだけれど)何かすごく熱いものを感じた。世界の多くの人々がとにかく一致団結してことを起こそうと躍起になった1960年代は、100年と少しという録音芸術の短い歴史の中でも実に画期的で進歩的な時代だったのだろうか・・・。

劇的に暑い本日は、幸か不幸かまる一日大学の補講。お蔭で強烈な日光に照らされて汗びっしょりにならずに済んだが、心身は無性に音のオアシスを求めており、とにかく時間とお金を費やして丁寧にレコーディングされている1960年代のものをと、棚を漁った。

クラシック音楽にはまりだした初期の頃から繰り返し何度聴いたかわからない名盤。それこそ、先日来話題になっている「間(魔)」の芸術の最高峰であるブルックナーの第8交響曲。この軽快で快速テンポの演奏がどうしてこうも感動的なのか、その理由が今日わかった。何と言っても「間」の取り方の自然さ、そして何気ない「呼吸」の深さ(例えば終楽章コーダ手前の第1楽章第1主題再現部分のものすごい実在的な響き!そしてわずかな「間」のあとほとんど間髪おかずに一気呵成に進むコーダの魔力)。まるでライブのような生々しさ。このあたりはヨッフムがシュターツカペレ・ドレスデンと晩年に録音した演奏と比較してみると興味深い。同じような軽快なテンポで進むヨッフム盤も優れた演奏だが、シューリヒトに比べ第1楽章第1主題再現の「呼吸」は浅いし、コーダに続く「間」も少々間延びしている。

おそらくこれは、スタジオでの録音かそれとも聴衆が入ってのホールでの実演かという、2人の芸術家のスタンス、スタイルの違いなのだろう。ヨッフムは明らかにライブの人。一方のシューリヒトはライブもスタジオも関係ない人(その意味でクナッパーツブッシュと双璧か)。それは、シューリヒトのこの10年近く前のシュトゥットガルト放送響との実況録音と比較すると面白い。テンポは遅めに設定されているが、呼吸の深さと見事な間合いの取り方は不変。

ブルックナー:交響曲第8番ハ短調
カール・シューリヒト指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1963.12.9-12)

カール・シューリヒト指揮シュトゥットガルト放送交響楽団(1954.3.10Live)


3 COMMENTS

雅之

おはようございます。

60年代の音楽風景、シューリヒトやヨッフムのブルックナーの件など、私も岡本さんとほぼ同感です。但し、「間」や「呼吸」について、今の私は、宇野さんのような一面的な価値観に絶対に与し縛られたくはありません。
なぜなら、理想の「間」や「呼吸」などというものは、演奏家と聴き手双方で、時代、世代、年齢、民族、言語、文化、気候、その他環境など、時と場合によって、どうにでも変わるからです。

同じフルトヴェングラーのブル8の実演でも、平和な時代の演奏と、いつ空襲になるかわかららない戦時下の緊張の極限でのライヴとでは、指揮者も聴き手も、理想の「間」は変化して当然でしょう。シューリヒトのブル8の音盤でも、聴き手に心の余裕がある時とない時では、「間」の感じかたは変わるでしょうし、昔は波長が合わなかった演奏も今聴くとしっくりくるとか、その逆もあるでしょう。「呼吸」もただ深ければよいというものでもなく、「過呼吸」という場合もあり、どう感じるかは人それぞれ、千差万別でしょう。バーンスタイン&VPOのシベリウス録音、録音だけで聴くのと、映像で指揮姿を観ながら聴くのとでは、音じ演奏でも「間」の説得力が違って感じられます。マゼール&VPOによる変態的(ある意味天才的)な「ハルサイ」録音、学生時代、音楽に詳しい仲間たちと、あれほど喫驚して聴いていたのに、先日岡本さんと聴いた時には、その異常な「間」の取り方にも何も感じませんでした。こちらの感性が刺激に慣れ変化したからでしょう。

琵琶法師によって語られる「平家物語」を、理想の「間」や「呼吸」と感じられる現代人は少ないでしょうし、琵琶法師という職業も世代により、時代と呼吸を合わせ語り口を変化させていかなければ、伝統を守ってはいけないでしょう。

ブーレーズ&VPOによる聖フローリアンでのブル8ライヴでは、録音だけで聴くのと映像を観ながら聴くのとでは「間」の印象が異なり、特に教会地下に安置された多数の殉教者たちの髑髏(どくろ)山積みのグロテスクな映像がいいところで映し出されると、ブル8での「間」の持つ意味も変化し、普通の日本人マニアの持っているブルックナー観を根底から揺さぶられる気がします。日本人によるカメラ・ワークだったら、あんな編集はしないと思います。ブル8を鑑賞する時、髑髏の山は観たくないです。宗教、文化の差ですね。

>劇的に暑い本日

私は、ひんやりとした音楽を聴きました。

ノルドグレン:小泉八雲の怪談によるバラード  舘野泉(ピアノ)
1. お貞
2. 雪女
3. 無間鐘
4. おしどり
5. むじな
6. ろくろ首
7. 耳なし芳一
8. 食人鬼
9. 十六桜
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%83%89%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%83%B3-%E5%B0%8F%E6%B3%89%E5%85%AB%E9%9B%B2%E3%81%AE%E6%80%AA%E8%AB%87%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%89-%E8%88%98%E9%87%8E%E6%B3%89/dp/B00005HHEZ/ref=sr_1_1?s=music&ie=UTF8&qid=1310335989&sr=1-1

ノルドグレンはフィンランド生まれで、日本に留学したこともある作曲家です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%83%89%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%83%B3

イギリス領であったレフカダ島(1864年にギリシャに編入)にて、イギリス軍の軍医であったアイルランド人の父と、レフカダ島と同じイオニア諸島にあるキティラ島出身のギリシャ人の母のもとに出生、アイルランド・ダブリンで主に幼少時代を過ごした小泉八雲、フィンランド人のノルドグレン、そしてフィンランドで長く過ごした日本人、 舘野泉、この 3者、日本の怪談についての「行間」の感じ方はそれぞれ違っていたはずで、そんなことを想像しながら聴くのも一興です。

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。

>、今の私は、宇野さんのような一面的な価値観に絶対に与し縛られたくはありません。

確かに、一面的なものの見方になってしまうのは反省です。しかし、言葉の使い方が間違っていたのかもしれませんが、その音楽家が持っているバイオリズムというのは状況がどんなであろうと変わらないんだということを採り上げたシューリヒトの2枚のブル8で考えさせられたというのは事実です。
呼吸の深さ云々というのもあくまで好き嫌いの問題でしょうね。おっしゃるように「深い」からといって必ずしもそれがベストということではないでしょうから。当然聴く側のリズムと(あるいは感性と)一致するかどうかというのも大きな問題です。
まぁ、フルトヴェングラーの戦時中の録音なども、何十年も後に我々が追体験している音、雰囲気すべて錯覚のようにも思いますし(本当はその時代の空気を吸い、その場にいた人にしか絶対にわかりえないもの)。単純に第2次世界大戦中だった、フルトヴェングラーがゲシュタポに逮捕される寸前だったなどの知識が感動を作ってしまっているのでしょう。実際その場にいて聴いた人の感動の質とはえらく乖離しているでしょう。

>学生時代、音楽に詳しい仲間たちと、あれほど喫驚して聴いていたのに、先日岡本さんと聴いた時には、その異常な「間」の取り方にも何も感じませんでした。

そう、慣れって怖いですよね。そういう意味では音楽とはやっぱり一回性の芸術なんでしょうね。そういう観点で聴けば、ライブというのはすべて意味のある、必ず感動的なシーンのあるものだと思います。

ご紹介の館野さんのノルドグレン、興味深いです。こういうマニアックな作品についていろいろと教えていただきたいですね。僕自身これまでいかに狭い範囲でしか聴いてこなかったことがわかります。

>この 3者、日本の怪談についての「行間」の感じ方はそれぞれ違っていたはずで、そんなことを想像しながら聴くのも一興です。

確かに!ますます聴きたくなります。
ありがとうございます。

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アレグロ・コン・ブリオ~第4章 » Blog Archive » 回想シーンに涙する

[…] ここ最近ワークショップなどで「今を生きる」ことを説いているのだけれど、僕自身は意外に過去を回想したりするのが好きで、時折懐古趣味に陥ることがある。何だ矛盾しているじゃないか、言っていることとやっていることが違うじゃないかとお叱りを受けそうだが、別に過去に固執しているわけでもないし、そう言いながらしっかりと今を意識しようとしているからそのあたりは大目に見ていただこう(笑)。 どうしてそんなことをふと思ったのか。 そういえば、クラシック音楽でもドラマや映画でもいわゆる回想シーンが出てくることが多いが、何ともそれが妙にツボにはまるのである。胸がきゅんとすると言ったら大袈裟だけれど、どうにも心の琴線に触れて涙が出そうになる。音楽の手法の場合、例えば第1楽章の主要主題がフィナーレで回想されたりすると、それだけでもうその音楽は僕の宝になってしまう。ブルックナーの第8交響曲や(最近はほとんど聴いていないけれど)ブラームスの第3弦楽四重奏曲などは初めて聴いたときから既に愛聴曲で若い頃は本当に繰り返し聴いた。そういえば、変奏曲などでも最終変奏で主題が調性を変えて出てきたりすると胸が高鳴る(そう、まるで恋しているかのよう・・・笑)。 […]

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