友人に勧められて古式マスターヨーガに参加した。
これが実に素晴らしい。気のパイプを掃除してエネルギーの循環を整えるというもの。ともかく身をもって「流れがわかる」というのが良い。合気道を始めたせいか、あるいは毎日朝晩きっちり瞑想しているせいか最近は心身の調子がすこぶる良く、極めて気が通りやすい。何事も体感的に学習することはやっぱり大事。
日常のあらゆることがこの恩恵をもたらしてくれているのだろう。感謝である。
ところで、深夜に突然「ウルトラセブン」を聴きたくなった。「セブン」を聴くってどういうこと?そう、10数年前に購入した、「セブン」の挿入音楽のすべてが網羅されたミュージックファイルを聴きたくなったのである。作曲家冬木透氏一世一代の名曲揃いのこの音盤は、当時をオンタイムで過ごした人々には懐かしいだけでなく、真に特撮もの、特に「セブン」の凄さを思い知らされるものだと僕は思う。メインタイトル・オープニングからウルトラセブンの歌がそもそも涙もの。そして、各回に使用されたおどろおどろしいBGMや希望に満ちた音楽の数々。そのシーンがあっという間に眼前に蘇る。
例えば、メトロン星人の主題として扱われた「フルートとピアノのための協奏曲」など、何とも牧歌的でヘンデルやテレマンを髣髴とさせる傑作。あお、ジ・エコーズが歌う”Ultra Seven”なんかも聴いていて震えが止まらないほど感動的。
嗚呼、1960年代というのはいろいろな意味で刺激的な時代だったのだろう。その後半は僕の幼年時代と被るが、微かな記憶を辿りながら、あの頃のあどけない、そして自由な自分自身を思い浮かべる。そういえば、変身願望はあの頃からあった。ウルトラ・アイも子どもながらに作って遊んだっけ。古き良き思い出。
あ、「ノンマルトのテーマ」(オカリナの素朴な響き)だ。そして、「哀惜のバラード」(無為な兵器開発競争に明け暮れる人類や、心を通わすことのできなかった宇宙人に対して抱くダンの悲しみ)。さて、さすがにそろそろ寝るとするか・・・。
あのあと結局19時までかかっちゃった
喜んでもらえて良かったです
岡ちゃんのこと素質が良いって言ってたよ
>だいぞ
おはよう。
昨日はありがとう。
瞑想前に呼吸法やるとほんとに良いね。
>素質が良いって言ってたよ
そっか、軽くなってるからかな(笑)
こんばんは。
冬木透→ウルトラセブン→実相寺昭雄→小澤征爾→武満徹→『ノヴェンバー・ステップス』
今話題の佐宮 圭 (著) 「さわり」
http://www.amazon.co.jp/%E3%81%95%E3%82%8F%E3%82%8A-%E4%BD%90%E5%AE%AE-%E5%9C%AD/dp/4093882150/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1327925385&sr=1-1
を読みました。
これまで鶴田錦史のことは何一つ知りませんでした。いや、凄まじい生涯です。
『ノヴェンバー・ステップス』
http://www.youtube.com/watch?v=DTynbEwbDsE
の映像ソフトが欲しいです。
むろん、欲しいのはこのメンバーの演奏しか有り得ません。
http://www.youtube.com/watch?v=9CeDYLRK0ik&feature=related
音楽は喧嘩だ。
>雅之様
こんばんは。
ウルトラセブンからノヴェンバー・ステップスですか。なるほど、セブンもノヴェンバーも1967年生まれですね。
それにしてもこのメンバーの演奏は最高です。
僕も映像ソフトが欲しくなりました。
>音楽は喧嘩だ。
同感です。
[…] ラテン及びスラヴ系の作品を振らせると右に出る者はなかなかいないんじゃないかと思わせるデュトワの棒は真に堂に入る。「古典」交響曲の方は実に可憐で瀟洒で、繰り返し聴けば聴くほどプロコフィエフがあらゆる時代の音楽を研究し尽くし、そのイディオムを自身に取り込み、そして独自の言語としてアウトプットしているということがよくわかり興味深い。ショスタコーヴィチの最初のシンフォニーがマーラーまでの巨大化する音楽(あるいはシベリウスの凝縮された世界)の語法を受け継ぎながらショスタコーヴィチならではの天才性を発揮したものであるのに対し、プロコフィエフのそれはいわば「古きを温ねて新しきを知る」という語法を駆使しての、こちらも天才が横溢する傑作。久しぶりに耳にして、それもショスタコーヴィチと比較してみてそんなことを考えた。 一方の第5交響曲。独ソ戦の最中に作曲が開始され、初演はレニングラードがドイツ軍の包囲から解放された直後にあたるらしい(1945年1月13日)。ショスタコーヴィチが親友ソレルチンスキイの突然の死を悼んで第2ピアノ・トリオを書き、第2弦楽四重奏曲をちょうど書いていた頃である。 第1楽章を聴くと僕はウルトラセブンなどの特撮ものを思い出してしまう(これは勝手な僕の想像だけれど)。決して作曲者本人の中にそういう意図はないだろうが、開放的で勝利の喜びを謳歌する意思を感じるのである(打楽器の使い方が素敵)。 それと、第3楽章アダージョ。決して甘ったるくなく、といって難解で耳を塞ぎたくなるような玄人向け音楽でもない過去を追想するかのような懐かしさを秘めた音楽。そして、フィナーレでは冒頭で第1楽章の主題が回想される(どきっ!)。コーダの打楽器群の活躍も痺れる。 そういえば、小澤はどんな音楽を創っていたのだろう。終演後の熱狂的な拍手喝采だけが脳裏を過る。 […]