巷では評判の高いクリスティアン・ティーレマン指揮ウィーン・フィルによるベートーヴェンの交響曲全集は、曲によってどうもムラがありそうだ。本日の早わかりクラシック音楽入門講座ではベートーヴェンの第5交響曲を俎上にあげた。作曲家の生い立ち、時代背景、そして楽曲の構成など、2時間をフルに使って解説し、音盤を聴き、映像を観ていただいたのだが、朝比奈先生が最晩年に収録した大阪フィルとのものを第1楽章のみ視聴し、そして全曲演奏は先のティーレマンによるものを観た。
ティーレマンのこの全集、時間の関係でいまだそのすべてを観ることができていないのだが、先日聴いた第1番と第2番については、青年ベートーヴェンの初々しさと溌剌さを失わずに、しかも堂々として安定感のある演奏だったからとても感動し、即座に好感を持った。その経験から本日の講座にて初めて第5交響曲を全曲通して聴いたのだが、残念ながら僕的には少し「?」のつく演奏だった。何だかテンポの伸縮や音の強弱が見事に恣意的に感じられ、入念に楽譜を研究した末の成果なのかもしれないが、正直あまり良いとは思えなかったのである(いやこれは単なる好き嫌いの問題かもしれないけれど)。
その直前に朝比奈隆&大阪フィルの2000年に収録されたものを観たから余計にそう感じただろうか。朝比奈先生が亡くなる1年半前に演奏した第5交響曲には本当に久しぶりに接した。画面を直視して、真剣に観たのは初めてかも(笑)。でも、とても92歳とは思えない矍鑠たる演奏姿で何よりその棒から生み出される音楽の活き活きしていることと、真に音楽しか感じさせない自然さを痛感し、朝比奈隆のベートーヴェンは偉大だったんだということを再確認させられた。
講座中にふと考えたこと。
確かにティーレマンは素敵な音楽家だ。しかしながら、まだ50代前半という年齢ゆえ、ぎらぎらとしたエネルギーに満ち溢れており、それがどうにも空回りしているような印象をどこかにもつ。一方の御大の音楽は欲のない、本当に「ありのまま」を体現する、引くものも足すものもない特別な芸術だと。特に終楽章の表現に2人の差が顕著に現れるように僕には思える。この歓喜に満ちた勝利の音楽を、ティーレマンは意思をもってドライブしようとする。しかし朝比奈は意思を持たない。作曲家と再現者の力関係にぶつかりのない、まさに「ゼロの状態」。
ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調作品67
朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー交響楽団(2000.5.10Live)
ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調作品67
クリスティアン・ティーレマン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(2010.4Live)
このあまりにも通俗な名曲は、わかっていても感動させる要素がいっぱい。
ベートーヴェンが天才だと言われる所以はそこにあり。音楽がよくできている故、ある意味指揮者を選ぶ。余計な味付けをせず、無欲にただただ楽譜に忠実に再現すること。そのことは朝比奈先生がよく言われていた言葉でもあるが、「無欲に忠実に」ということがいかに難しいことかというのがこういう映像の比較からも如実にわかるというのが何より面白い。
そういえば、合気道を始めて6ヶ月目に入るが、こちらも日々修練、勉強である。
それこそ「無欲に自然体で」こそが合気道において大切な姿勢なのだが、これがなかなかそう簡単ではない。その字の如く「相手を気を合わせること」がポイントだが、指揮者とオーケストラの関係も同じだろう。勝手を知り尽くした朝比奈&大フィルに対し、合いまみえることのまだまだ少ないティーレマン&ウィーン・フィル。
音楽を通じて日々様々な発見があって興味深い。音楽というのは本当に深い。
おはようございます。
>残念ながら僕的には少し「?」のつく演奏だった
>確かにティーレマンは素敵な音楽家だ。しかしながら、まだ50代前半という年齢ゆえ、ぎらぎらとしたエネルギーに満ち溢れており、それがどうにも空回りしているような印象をどこかにもつ。
ティーレマンのベートーヴェンについては全く同じ感想、120パーセント同感です。
しかしながら、「則天去私」の視点で考えれば、ティーレマン氏はこう言うでしょうね。
「残念ながら雅之や岡本さんは少し「?」のつく音楽マニアですね。まだ40代後半〜50代前半という年齢ゆえ、ぎらぎらとしたエネルギーに満ち溢れており、それがどうにも空回りして、音楽を深くは理解していないような印象をどこかに持ちますが・・・笑」
じゃあ、朝比奈先生の40〜50代のころはどうだったんだ、ということです。
「若い」や「エゴ」や「欲望」や「空回り」などを全否定したら、たとえば往年のジャズメンたちや、ロックのスターたちはどうなんだ、ということになります。
偶然ですが数日前、久しぶりに先生最後の「第九」
http://www.hmv.co.jp/product/detail/392405
を聴いて感動を新たにしたのですが(いつ聴いてもこの2回の演奏&録音は、12月29日と30日で、随分印象が異なりますね)、30日のアンコール「蛍の光」で、不覚にも涙が出そうになりました。
朝比奈先生も、まだまだ生意気で「未完成」
http://www.hmv.co.jp/product/detail/221237
だった遠い若かりしころのご自分を懐かしんでおられたのではないかと想像しつつ。
>雅之様
おはようございます。
>「則天去私」の視点で考えれば、ティーレマン氏はこう言うでしょうね。
>「若い」や「エゴ」や「欲望」や「空回り」などを全否定したら、たとえば往年のジャズメンたちや、ロックのスターたちはどうなんだ、ということになります。
おっしゃるとおり、年齢じゃないですよね。
それで思ったのですが、自分に与えられた寿命というものが予めわからなくても、人生の最後の方で仕事が深みを増してゆくという事実はどういうことなんでしょうね。例えばモーツァルト、シューベルト、メンデルスゾーンの「晩年」の作品群。それにコルトレーンの最晩年も(40代前半です)。あるいはジム・モリスンやカート・コバーンなんかも(彼らは27歳で亡くなっています)。不思議なものです。
>先生最後の「第九」
>30日のアンコール「蛍の光」で、不覚にも涙が出そうになりました。
長いこと僕も聴いておりません。久しぶりに聴いてみたくなりました。
ありがとうございます。
>人生の最後の方で仕事が深みを増してゆくという事実はどういうことなんでしょうね。
答えにはなっていませんが、日中近所の公園でお花見をしていて私の頭をよぎったのは、梶井基次郎の有名な「桜の樹の下には」でした。
・・・・・・桜の樹の下には屍体(したい)が埋まっている!
これは信じていいことなんだよ。何故(なぜ)って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。・・・・・・
・・・・・・いったいどんな樹の花でも、いわゆる真っ盛りという状態に達すると、あたりの空気のなかへ一種神秘な雰囲気を撒き散らすものだ。それは、よく廻った独楽(こま)が完全な静止に澄むように、また、音楽の上手な演奏がきまってなにかの幻覚を伴うように、灼熱(しゃくねつ)した生殖の幻覚させる後光のようなものだ。それは人の心を撲(う)たずにはおかない、不思議な、生き生きとした、美しさだ。
しかし、昨日、一昨日、俺の心をひどく陰気にしたものもそれなのだ。俺にはその美しさがなにか信じられないもののような気がした。俺は反対に不安になり、憂鬱(ゆううつ)になり、空虚な気持になった。しかし、俺はいまやっとわかった。
おまえ、この爛漫(らんまん)と咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像してみるがいい。何が俺をそんなに不安にしていたかがおまえには納得がいくだろう。・・・・・・・
http://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/427_19793.html
芸術家が自分の体に変調を来たし嫌でも死と向き合い意識した時などにも、それまでの自分とは違う、美の本質とは何かを深いところで発見することが出来るのでしょう、・・・きっと、多分(笑)。
>雅之様
こんばんは。
なるほど。芸術家に限らず人間というのは自分の死期というのはわかっているものなんでしょうね。
身体の変調に限らず、自己や突然死の場合でも多くの場合その直前に何か本質的なものを提示してから死を迎えるようにも思われます。
若くして亡くなった梶井基次郎自身もそうなのでしょう。